カテゴリ:院生リンボー( 13 )

富裕とワガママ

心地よい風が吹くある春の日、通勤中に驚く発見をする。毎朝通りすぎる池で、小さな子供が溺れかけているのだ。

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“Restoration of the Apparently Drowned. Howard’s Method” (detail), in The Household Physician (1874). Public domain.


池に飛び込めば、着ている500ドルのスーツとイタリア製の靴が台無しになってしまうが、子供を無事に引きずり出すことができる。すると大事な会議にも遅れてしまうが、いやいや、もちろん、子供の命を救うべきである。すぐさま池に飛び込むべきだ。

…びっくりさせて、スミマセン。久々に、授業で使った思考実験の紹介です。

枕が少し長くなりますが、ご興味あれば More をクリックしてください。



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by majani | 2017-03-23 12:46 | 院生リンボー | Trackback | Comments(0)

雨の日のロダン

降ったり止んだりの雨。天気のせいでブルーになりがちな日は、ロダンの考える人の顔をのぞきに行く。

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毎日、キャンパス内の美術館の前を通ってオフィスに向かう。雨の日の人影は、ロダンの彫刻だけ。

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ある夕方、寄ってみた。

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『地獄の門』。「考える人」が門の中心に座っている。よしよし、今日も考えているね。

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晴れていれば美術館のオープンエアカフェに座って、ビールを飲みながら生徒のペーパーの採点ができるのになあ。上は一年前にそうしていたとき。お気楽に過ごしていた時期だった。

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生徒たちが書いたエッセイの山を築き、今夜も作業に取り掛かる。大学院生には週末も平日もないんだなと、今さらだけれど、改めて思う。


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by majani | 2017-02-25 11:28 | 院生リンボー | Trackback | Comments(2)

学者とベーコン

春になると、「来年はジョブマーケットに出るの?」という質問が学部の廊下で飛び交うようになる。

ジョブマーケット―それは博士課程を終えようとしている学者の卵たちが聞いて震え上がる言葉。アカデミアでは、大学での教職、研究職に就くための就職活動のことを示す。

博士号の取得後にジョブマーケットに出る人もいるが(例えばポスドクをしながら)、大抵は博士課程の最後の一年間に起きることである。米国の新学年は秋に始まるので、ほとんどの分野は秋から冬にかけてが就活の勝負時。運よく仕事が見つかったならば、翌年の秋に就任する。

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Martin, Linda. "Pig wearing suit." Clipart by AnimalsClipart.com.


ジョブマーケットと聞くと、どこかの村で毎年行われる家畜オークション(?)みたいなものを思い浮かべてしまう。

そろそろハムやベーコンにできるくらいに育った豚が、鼻を振りながらとことこ出てくる場面を想像する。ハンチング帽に白いコートのおじさんに、木の板で方向を正されながら、会場を回り、細かく審査される。丸く立派に育った豚には評判の良い業者が挙って入札し、芸がある豚は家庭に貰われて行き、小さくて脂肪が少ない豚は売れ残る。と思いきや、大きく育った黒豚に買い手がつかないこともある。

悪意があって学者をベーコンになってしまう家畜に喩えているわけではなく、「市場に出る」という言い回しからも受け取れるように、アカデミアの就活は年々、競争が激しく、予測し得ないことが多々あるのです。上の少しダークなアナロギーに戻ると、オークションに参加している業者が少なかったり、たまたま似たような豚が国中から何百匹も集まっていたり、理由は色々。最終的には、努力を尽くし、あとは運試し・・・いちかばちか、やってみよう!という気持ちで飛び込んでいくしかない。秋と冬の間(分野によってはもっと早い)、出来立てホヤホヤの学者は、それは豚や新商品であるかのようにいくつものバイヤー(大学)にじろじろ見られ、つつかれ、批判され、もみくちゃにされて新年を迎える。

それを私は今年するのだ。一番大変な時期はまだ少し先のことだが、何故こんな決意をしたのだろうかとすでに途方に暮れている・・・というか、激しく面倒くさがっている。

一時期、私にしてはマメにジョブマーケットを実際に体験した先輩方から情報集めをしていた。とある先輩が、コーヒーカップを見つめながら、「ジョブマーケットは・・・俺を変えた」と呟いた時はさすがに私もギクリとしたが、基本的には、なんとかなるさと楽観的に考えてしまう性格だ。(主人も今年ジョブマーケットに出ており、夫婦でポケモンを探しに出るのが私たちの現実逃避&僥倖タイムになっている。)

沢山の人々に支えられながら挑むとはいえ、心細くなることもある。友達の間で、研究や会社で抱えているプロジェクトを、自分の「赤ちゃん」に喩えることがあるが、アイディアとは、時間と知恵を費やし(ちょっとした偶然性もあるかも)自分がまさしく「生み出す」ものだ。ジョブマーケットに出ると、何も無かった所に私の中から生み出したその何かが、賢い人間に厳しく評価されるわけである。その評価が良くなかったら・・・。

しかし陰鬱な気分になっていてはしょうがない。

今年のオークションの様子はまだ把握できない。私はあまり脂の乗っていない豚かもしれないけれど、まあ、誰かがきっと入札してくれるだろう。そしてその時は、とても美味しいベーコンになってみせましょう。


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by majani | 2016-07-28 08:51 | 院生リンボー | Trackback | Comments(0)

総理大臣が来る

先週、安倍首相がざ・ふぁーむを訪問し、学校のコンサートホールで講演会が行われた。

安倍総理のスピーチは、シリコンバレーのイノベーション、また creative destruction といったエートスから学べることが沢山あるという内容。日本企業のシリコンバレー進出を支援する企画や、サンフランシスコとロスを結ぶ高速鉄道の計画に対し、日本の新幹線をカリフォルニア州知事にピッチしたことなどを報告した。

国会演説とざ・ふぁーむで行われたシンポジウムに対し、思うことは色々あった。しかしここに書き留めたいのは、些細なことではあるが、全く違う感想である。

それは、これほどかしこまって、厳かなイベント会場をざ・ふぁーむで見るのは初めてだということ。

ざ・ふぁーむは東海岸のアイビーリーグ校に比べ、学会などの参加者の服装が随分カジュアルだと普段からされている。私の分野で、東海岸で訓練を受けている研究者が初めてこちらに招かれると、「堅苦しくなくて良いね」というジョークがあったり、「背広で出席しないんだね!」と驚かれたりする。ナンデモアリフォルニアの心地よい天候のせい(おかげ?)か、服装もなんとなくリラックスしてしまうのである。

それが今回の安倍総理訪問においては、参加者のほぼ全員がフォーマルな格好をしている。ざ・ふぁーむじゃないみたいだ。学校のロゴが入ったTシャツのいわゆる学生っぽい格好をした学部生がちらほらいるが、日本人学生・研究者・教授はピシッとした背広姿が揃う。見事な晴天だったこの日は夏のように暑く、本当はパンツ一丁でいたい気分だった私であるが、ジャケットをはおって行って大正解。

やはり日本人が集まるイベントは、かしこまっている。最近、オバマ大統領もざ・ふぁーむに来ていたが、その時でさえこんなにかしこまっていなかった。

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さて、ゲーム理論の簡単な例で、次のようなものがある。ある仲良しな夫婦が今夜出かけることになっているが、行き先がまだ決まらない。バレエを観に行くか、映画を観に行くか、二つのアクティビティが候補としてあがっている。

一人はどちらかと言えばバレエを観たい。しかし相手と一緒に時間を過ごすことが肝心なので、映画になっても別に文句は言わない。もう一人はどちらかと言えば映画を観たい気分だが、やはり二人で楽しめるのであればバレエでも良い。さて、二人は今夜どこに行くのでしょう?

ナゾナゾみたいになってしまったが、答えは至って普通。二人揃ってバレエの劇場、あるいは二人揃って映画館に行くのである。論理的なプレイヤーの二人がそれぞれ取りうる行動や最適な戦略など、その全てが一つの「ゲーム」とされ、お出かけする夫婦の例はコーディネーションが目的のゲームの一種だ。要点としては、「二人で同じことをする」、つまりコーディネートするのを優先しているため、いずれにしても一人がバレエに行ってもう一人が映画館、という結果は均衡として生じない。

事前に話し合っておけば、すんなり行き先が決まるはず(「今回バレエにしてくれたら、次は映画に付き合うよ」など、取引をしてもよい)。しかし問題が面白くなるのは事前に相談できなかった場合だ。6時に待ち合わせをしたのはいいが、場所を決める前に二人ともケータイの電池が切れて連絡が取れなくなってしまったとしよう。

国立劇場に向かうべき?それとも映画館?

講演会や学会に行く服装は、他の人が何を着てくるのか分からないが、それを推測して合わせなければならない、一種のコーディネーションゲームである。ケータイの電池が切れたまま、バレエに向かうか映画館に向かうか決めなければいけない夫婦のジレンマによく似ている。カジュアルな格好の方が若干楽ではあるものの、実際はフォーマルとかカジュアルとかどうでもよくて、とにかく自分だけ浮いているとマズイ、と考えるからだ。ドレスコードなど何等かの共有知識があれば安心して服装を計画できるのに、何も伝えられていないと慎重になる。

こちらに来て間もない頃、私は皆が映画館に行っている間、自分一人だけオペラグラスを持って淋しいバレエ劇場に行ってしまうということがあった。しかしこの「ゲーム」を遊び続けるにつれて、今日は映画館だな、今日はバレエだ、となんとなく分かってくるのもゲームの仕組みの一つ。ゲームを繰り返すことによって、学ぶチャンスが授けられるのだ。

もちろん、感覚が狂って皆がバラバラになってしまうことも。殊に一度限りのイベントや、他に誰が来るのか把握できないイベントはバラバラになる確率が高くなる。もっとも、オバマ大統領が来たときはコーディネートができず、映画を観に行った人もいれば、バレエの人もいた。それが安倍総理訪問の場合、事前に「何を着てく?」と話し合わなかったにも関わらず、国民性(?)だろうか、「日本人としての一般常識」みたいなものが作動し、ふぁーむらしからぬ「フォーマル」に一致したわけである。日本人が多いイベントだから絶対バレエだ!と他の人が意識していたかまでは分からない。とにかく私もバレエにして良かった良かったとホッとした。

こんなに日本人の仲間がいたんだ、嬉しいなあ、とも思った。

さて、バレエを見事に見極めたところで、暑いのには変わりない。最後に総理と握手する機会があり、手が汗ばんでいるのではないかと心配すればするほど、汗がにじみ出てくるような気がした。ぺとぺとしていたら、お許しください。これでも暑苦しい格好で一日頑張ったのです。

ここには日本人学生が少ないと聞きましたので、1人10人分くらい頑張ってください、という言葉を残し、総理は笑顔で、背広姿のアントゥラージュと共に颯爽と去って行った。総理の周りの人間は迷うことなく、毎日、毎日、バレエを観に劇場に現れるのである。


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by majani | 2015-05-07 15:44 | 院生リンボー | Trackback | Comments(2)

肉食の貴方へ

私はバットの素振りをするのが大好きだ。家の中だと狭すぎるが、玄関のすぐ外ならのびのびとできる。しかし困ったことに、表に出ると、必ずそこに大きな牛が突っ立っているのである。

バットを振れば、牛の頭を叩き割ってしまうことが必至。でもそれは別に楽しくもなんともない。私が素振りが好きなのは、牛の頭に当てることではなく、バットを振る動作そのもの(筋肉の動き方とか、美しいフォームとか)から生じる快感のため。牛には不運だが、当たってしまうのは単に副次的な出来事である。もちろん、バットを振るのを諦めて、ストレッチなど違う運動をすることだってできる。しかし牛を傷つけなくて済む他の行為からは、同じ量の快感は決して得られないと私は考える。

牛は未だに玄関前で、ボーっとこちらの様子をうかがっているが、動く気配は全くない。私は滑らかな木製の野球バットを握りしめ、牛の目を覗きこみ、自分に問いかける。野球バットを振るのは、果たして許されることだろうか?
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久々に思考実験を紹介する。

上記の牛と野球バットの問題は、自由至上主義者のロバート・ノージックが考えたのを適応したもの。功利主義を批判する目的で紹介されたこの思考実験は、菜食主義(べジタリアニズム)に触れる倫理問題でもある。

ベジタリアンでない限り、私たちは日常的に肉を食べる。なにも肉を食べないと十分な栄養が取れない訳ではなく(極端な例だと、Soylent〈ソイレント〉を毎日飲めば何も食べずに健康維持できるらしい!)、肉料理が美味しく感じられるから食べるのである。しかしそれによって牛とか鶏とか食用の動物が毎日死んでいる。仮に肉を食べるのに倫理的な問題が無いとすると、牛の頭を叩き割ってまでバットを振る行為は許されないと感じる矛盾をどうやって解決すればよいのだろうか。肉を食べたいため牛を殺すのはOKだけど、バットを振りたいため牛を殺すのはNG…。そう教えてくれる一貫した倫理原則は存在するのだろうか?という思考実験。

私は七年のベジタリアン歴があったが、大学時代にチェコ共和国を旅していたとき、街頭で売っているぷりぷりっとしたホットドッグの誘惑に負けて、雑食動物に逆戻りした。それ以来、ずっとステーキを食べてきている。後ろめたい気持ちも、ずっと昔に消えた。

ところが最近、デフォルトでまたベジタリアンになりかけている。手術後の健康のため、また、食欲がなくて肉も魚も食べたくないという日があり、野菜だけの食事が多くなっている気がする。その昔ベジタリアンだった若い自分を思い出しながらアスパラをぽりぽり食べていたら、ノージックの思考実験を学生に与えたことも思い出した。
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去年の春、ティーチングアシスタントを務めていたクラスの教授の誘いを受けて、「動物倫理」というテーマで、人間が動物に対して持つ(または持たない)義務について講義をしたことがあった。

まずは牛と野球バットの思考実験。ここはナンデモアリフォルニア、生徒の中に何人かベジタリアンがいるだろうと思っていたら、一人もいなかった。哲学専攻の学部生は肉食が多いらしい。お肉が好きなだけあって、牛と野球バットの思考実験に当惑している様子の生徒たち。なんとしてでも、肉を食べることに倫理的な問題が無いという結果に結び付けたい。でも牛をバットで叩くのはあまりにも残酷だ。どうしよう。

「バットを振っても良いと考えた人は、誰かいますか?手をあげてみましょう」

ぽつぽつと弱気な手があがるが、それをすぐ引っ込める生徒もいる。

「うーん、まだ決まっていない人もいるようですね。誰か考えを聞かせてくれないかな」

「牛は死んじゃうんですか?」と一人の生徒が尋ねる。

「頭が木端微塵になってしまう設定ですから、必ず死にます」

「牛をどかしちゃったらいいんだ!」と誰かが言う。

「ダメダメ!それは思考実験のルール違反です。牛は動かせません。バットを振る場所も変えられません。バットが振れる唯一の場所に牛が必ずいるのです。」

「じゃあ、僕だったら振らないかなあ。とりあえず明日まで待ってみる。」

「ああ!それは賢い。やはり私にはできないと思い止まったとしましょう。しかし困りましたねえ。翌朝、また野球バットを持って外へ出ると、今度は違う動物がそこに立っているのです。とても悲しげな目をした馬です。」

生徒たちが笑う。

「私は都会育ちだから、牛とか馬とかにあまり思い入れがないです」と一人が冗談で言う。

「では、月曜日にはとっても可愛いウサギがいるとしましょう。火曜日は子犬、水曜日は子猫、木曜日はリス・・・。つまり、バットを振るのは今日だけの問題ではなくて、明日も翌日もそのまた翌日と続くのです。」

「確かに、子犬だったらバットは振れないと思います」

「では牛はあまり可愛くないから、バットを振ってもよいですね?」

「えっ、それは駄目です。可愛さで決めるのは理不尽。倫理的に関係ないです」と誰かが言う。

「ではどうやって決めたらいいのでしょう?」

生徒たちはまた少し考える。

「バットを振る快感というのも、なんとなく解らないです」と誰か言う。「私は野球をしないからこう感じてしまうのかもしれないですが、同じ快感が、他の運動からも得られるはずです。」

どうしても思考実験の設定にいちゃもんを付ける生徒が一人か二人いる。それは仕方がない。適応しながら会話を進める。

「そうですね、ではもっと身近なことにしてみましょう。週末とか、時間があるとき、何をするのが好きですか?」

「音楽を聴くのが好きです。リラックスできます。」

「音楽ね。私もリラックスするためによく音楽を流します。お風呂でもヨガでもいいんでしょうけど、音楽と同じレベルにリラックスできないんですね、これが。良いスピーカーを買うべきか迷っているんですよ。ところで、あなたはどうやって音楽を聴いていますか?」

「スマホです。パンドラ〈音楽が聴けるインターネットラジオのこと〉を使っています。」

「なるほど。ではこうしましょう。あなたがパンドラのアプリを開く度に、牛が一頭どこかで死にます。」

生徒たちが爆笑する。

「先生ー、どんどん変な方向に行ってます!」

「そんなことないですよ!むしろこっちの方が適格なアナロギーかもしれないですね。野球バットの設定だと、あなた自身が直接に牛を殺すことになってしまいますが、実際私たちが食べるお肉になる動物は、別の人間によって、どこか見えないところで殺されているわけですから。」

「別の人間が牛を殺すんだったら、パンドラのボタンをぽちっとしてもいいかも・・・」

「面白い見解です。どうして別の人間だったら許されると思いますか?」

「うーん、ちょとわからないけれど、残忍な殺し方じゃなかったら大丈夫な感じがします。」

何人か他の生徒が頷く。

「そうそう、バットを振る行為はなんとなく残酷な感じがします、先生」

「殺し方がいけないのですね。ではパンドラのボタンを押すと、牛はそのままパタッと倒れて死ぬことにしておきましょう。これだったら倫理的な問題はないでしょう!」と生徒を挑発してみる。

講義と言っても、このようなインターアクティブな要素を取り入れてみた。結果として、本当にベジタリアンになってしまった生徒が二人いた。そのうちの一人から、先生の講義のおかげでベジタリアンになりました!というお礼状がオフィスに届いた時はびっくりした。別にべジタリアニズムを肯定する講義ではなかったのに…。ちょっと的外れな生徒だったけれど、私の話が、思っていた以上に若い学生たちの脳ミソのニューロンを活性化し、レクチャーホールの外でも考えさせていたことをとても嬉しく思った。

倫理的に正しい行動と実際の行動、それはくっついたり離れたりする恋人のようにすれ違いが多い。ベジタリアンになった生徒が少しでも私のような人間であったとしたら、彼は何年か経ってから、異国の街で肉料理の香りにそそのかされ、またお肉を食べ始めることであろう。

参考文献:Nozick, Robert. 1974. Anarchy, State, and Utopia. New York: Basic Books, 35-42.
画像:Black and white diagram of cow parts for cuts of meat, Fig. 52 and Fig. 53. Public domain.


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by majani | 2015-03-26 11:09 | 院生リンボー | Trackback | Comments(0)

恋に落ちるサイエンス

街頭で捉まえた赤の他人と、たった45分間で恋に落ちることができるとしたら、あなたはやってみますか。



久しぶりにベートーベンさんと学食を食べたときに、次のような話になった。ベートーベンさんは恋愛なんか馬鹿馬鹿しいと言いかねない、「合理」を象徴する男である。しかし彼でも人肌寂しくもなるもので、またインターネットでデート相手を探し始めようかと考えていた。

「ベートーベンさんもオンラインデーティングするんだ。ちょっと意外」

彼は皿の上のチキンを均等に切り刻みながら状況をこう説明する。

「毎日忙しすぎて、バーで声をかけられるのなんか待ってらんない。それにゲイの人だけに絞れるから手間が省けるでしょ。オンラインの方が断然に効率的」

「なるほど。そういう考慮も必要なわけね」

「問題は時間。時間がない。時は金なり」

「あ、それなら、45分で恋に落ちることができるらしいよ。やってみたら」

「やだなあ、君もアレを読んだの?」

アレとは最近ニューヨークタイムズ紙に搭載された記事のことである。同期の間でちょっとした話題になった。

20年以上前に行われた心理学研究がピックアップされたもので、36問の質問を見ず知らずの相手と代わりばんこで答えていき、最後に4分間お互いの目をしっかり見つめ合うと、なんと恋に落ちるのである、という話。

個人的な質問のリストは進行するにつれて親密度が増す仕組みになっていて、心理学者が行った元の実験では被験者同士で実際に結婚したペアもいる、と記者は書いている。記者自身も同じ質問で知り合いの男性と実践してみたら、ちょっとイイ感じになったらしい。

本当だとしたら、なんて手っ取り早いことだろうか。

この「4分間見つめ合う」というのを最後に持ってきているのがミソ。36問目まで付き合ってくれる相手がいれば(けっこう面倒くさい質問も含む)すでに好印象を持っているというシグナルになっているのではないか、とふと思う。全く脈なしだったら10問前後で「この人と一緒にもう答えたくない」となってしまい、見つめ合うところまでたどり着かない。すると、最後まで残るような被験者ペアは恋に落ちる確率が必然的に高くなっているはずである。しかし実験を途中辞退した被験者については何も書いていない。

実際にやってみた。

もちろん、本来の実験と異なる部分がいくつかある。(1)お酒を飲みながら(2)すでに仲の良い(3)女同士で試みた。まるで実証にならない。つまるところお遊びでやってみた。

「4分で自分が歩んできた人生のことをできるだけ詳しく話しましょう」という指示もあれば、もう少し想像力を強いられる質問も。例えば、

「家が火事になりました。家族とペットの無事を確認した後、何か一つだけ家から持ち出す時間があります。あなたは何を持ち出しますか。理由も述べましょう」

「自分のこと、自分の人生のこと、あるいは未来のことを一つだけ教えてくれる魔法の水晶玉を手に入れました。あなただったら何が知りたいですか」

まだよく知らない相手なのに、「お互いの共通点を三つ挙げてみましょう」とか「相手の長所を五つ挙げましょう」など。

けっこう盛り上がったのだが、最後の方になると、自分が抱えている悩みや、死に関する質問が多くなってくる。最も親しい人にしか打ち明けないようなことを打ち明けさせるのに意義があるようだ。

「…なんか暗いね」と相手のサファリさん。

「うん。せっかくの酔いが醒めてしまう」

憂鬱になる前に中止した、というか少し飽きてしまったというのが本音。

真面目なベートーベンさんと現地逃避を得意とする私は、元の心理学研究の論文をダウンロードしてみた。質疑応答は45分程度かかるとのこと。学者らは、結婚した被験者たちのことに関しては、「後にこーんな思いがけないこともありました!」という具合に軽くコメントしている程度で、研究結果と結びつけていない。実験との因果関係が実証されていないから、それ以上言えないのである。また、短期的な「親密さ」や「親近感」が生まれると主張しているものの、「恋に落ちる」や「長期的な恋愛関係に繋がる」等の表現を敢えて否定している。

拾い読みしただけだが(これも読んでいるうちに飽きてしまった)、早い話が「実際に結婚したカップルがいた」という部分が独り歩きしてしまったようだ。全国で愛読されるニューヨークタイムズ紙が面白い所だけかいつまんで伝えたことから「4分間見つめ合うだけで、誰とでも恋愛ができる!」という勘違いが広まっていく一方である。まあ、面白おかしく書かれている記事だから、読んだ人が鵜呑みにするとは思わないけれど。

「大衆向けに書いてると適当になっちゃうもんなのさ」と偉そうに語るブルジョアなベートーベンさん。

「じゃあ36コの質問はプロフィールに載せたりしないの」

「けっこう良い質問もあるんだけどね。…ふん、考えとく」

やっぱり話がウマすぎたか。恋に落ちるサイエンスは、けっきょくまだ不透明な部分多し。


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by majani | 2015-02-04 13:08 | 院生リンボー | Trackback | Comments(0)

修羅場とポテト

大学院は精神的に辛い!

まず、博士課程について少し話しておく。研究分野や学校にもよるが、大概のPhDプログラム、殊に文系のプログラムは、学部生のクラスを受け持ったり(teaching assistantship )教授の研究の手伝いをしたり( research assistantship )するのが学者のトレーニングの一環としてある。その代わりに学費、医療保険費、生活費、夏の間の研究費や学会に出る費用等は学部側が持つ。その点、ざ・ふぁーむの私の学部はとても手厚く、院生は大変恵まれていると思う。金銭的な面で悩まずに研究に没頭できるのは、とてもありがたいことだ。

では何が辛いかというと、仕事の量が半端じゃないということもあるが、どの院生も必ず一度は漠然とした不安に襲われる。それは流動的なアカデミアのジョブマーケットの不確実性だったり、あるいは自分のアイディアは果たして十分に画期的かつ面白いだろうかといった内省的な疑問であったり、原因は様々。とにかくモヤモヤした不安を常に肩車しながら、一日一日を乗り越えていくという感じだ。心地良い心境でないことは言うまでもない。そこに体力的な疲労や睡眠不足が加わる。又、極度のあがり症で、毎週毎週やってくる授業を教えなければいかない日が精神的な苦痛、という人もいるらしい。全く何故こんな馬鹿馬鹿しい茨の道を選んでしまったのだ、と過去の自分を罵倒しながら暮らす大学院生は少なくないと思う。

しかし、周りの皆が苦しんでいるのを目撃することによって、特殊な平等間が生まれ、もう少し頑張れるような気になる。仲間意識って不思議。そしてもちろん、苦労した分、何か達成できた時の喜びはそれだけ大きい。

最近、ばてている。気が滅入っている日はジョギングに行ったり、ヨガに励んだり、ざ・ふぁーむ周辺のハイキングルートを歩いたりしてストレス発散してるんだ!と言ってみたいところだが、そんな健康的なことは一切していない。同期の友人がハーフマラソンを走っている間、私は料理を大量に作ってそれを食べたり、ユーチューブでビデオを観たりしている、所謂カウチポテト(couch potato)だ。

カウチ、つまりソファに座ってばかりいる怠け者をジャガイモに喩えた表現である。テレビをよく観るという意も隠れているような気がする。理由は、tuber(塊茎〈作物〉)を tube (あるいは boob tube、最近あまり聞かないが、俗にテレビのこと)にかけているから。因みにユーチューブがYouTube なのも、「あなたのテレビ」ということだから納得いく。

自分が動かない代わりに、他の人が踊り狂っているミュージックビデオを観ては自分も動いている都合のいい錯覚に陥る。ジャネル・モナエがすべすべのオクスフォードで踊っているプロモーションビデオは最近何度もリピート再生している。この髪型は死んでもできないけれど。

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Mémoires du Muséum d’histoire naturelle (1815). « Organographie comparée. Pomme de terre rameuse. »


締め切りなどに追われて修羅場のときは、とうとう自分も動き出す。同居人のスナフキンが留守であれば、台所でお茶を淹れながら一人で踊ったりすることもある。だから完全なカウチポテトではない。ポテトは下手な踊りを踊るアウトドアトマト(?)に変身するのだ

しかし、壁がとても薄いアパートメントなので、近所に迷惑をかけないためスマホとイヤホンで音楽を聴く。私の台所には大きな窓がいくつかあり、電球を入れ替えたのはいいけれど、今度は窓のブラインドが壊れていて常に上がっている状態にある。つまり踊っていると、隣の建物から出てきた人に丸見えなのだ。窓をチラッと覗けば、小さな日本人が一人で静かな台所で気が触れたように腰を振ったりジルバを踊ったりしているので、私の修羅場に出くわしてしまった気の毒な住人は大変不気味な光景を目撃することになる。が、修羅場なので、全然申し訳なくない。お茶を淹れるときぐらい静かに躍らせてくれい。

余談であるが、「修羅場」は英語でなんと表現すればよいのだろう。Obstacles (障害)は生易しすぎるし、hell(地獄)も battlefield (戦場)もなんとなくしっくりこない。

学期も残りわずか二週間。今日も私は静かに踊る。


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by majani | 2014-05-28 08:11 | 院生リンボー | Trackback | Comments(0)

そしてバイオリン弾きは死ぬ

朝起きたら、隣に見知らぬ男が寝ていた。男はとても有名なバイオリン弾きだと後に知ることになる。しかし何故ここに横たわっているのだろう。問題だ。

しかもこの部屋に見覚えがない。とりあえず起き上がると、なんと自分の体から変な管が出ていて、バイオリン弾きの体に繋がれているではないか。驚きすぎて呆然としていると、『音楽を愛する人たちの会』の会員が部屋に入ってきて次のように状況を説明する。

「お目覚めですか!どうもどうも、すみませんねえ。」

「え、ちょっ…すみませんねじゃなくて、誰なんですか、この人。」

「この男性は無二の才能を持つバイオリニストなんですが、腎臓を悪くしてまして、あなたの体を9ヶ月間このように借りないと、治らないどころか死んでしまうのです。」

「それはお気の毒ですけど。こっちだって困ります。」

「あなたには大変申し訳ないんですが、世界中の人のカルテを確認したところ、バイオリニストの珍しい血液に適合するのがあなた一人しかいなかったので、昨夜あなたをさらってきて、バイオリニストに繋がせていただきました。」

「私、『音楽を愛する人たちの会』にアッサリさらわれたんですか。っていうか、9ヶ月間って長くないですか。管を今ここで引っこ抜いたら、どうなるんですか。」

「管を抜くと、バイオリニストは死にます。9ヶ月後、バイオリニストが回復したときに管を抜けば元通りになります。よろしくお願いしますよ。」

さて、あなただったら管を抜く?

バイオリニストと9ヶ月間繋がっている道徳上の義務はあるだろうか。9ヶ月ではなく、9年間だったら?あるいは、たったの一時間だったら、繋がっている義務はあるだろうか。

シュールな思考実験はジューディス・ジャーヴィス・トムソン(1971年)の『妊娠中絶の弁護』という論文に出てくるものである(注1)。胎児を著名なバイオリン弾きと置き換え、妊婦・母親を通性代名詞の you 、つまり「あなた」と置き換えた。中絶の是非をめぐる論争は哲学者の間でもあり、トムソンのバイオリン弾きの思考実験は今なおとても有名だ。

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注1:出典 Thomson, J. J. "A Defense of Abortion". Philosophy & Public Affairs 1:1 (Autumn 1971): 47–66. イラスト出典 Dubourg, G. 1852. The Violin.


トムソン自身は、管を抜いてもよいと考えた。理由を書くと長くなってしまうので省くことにするが、結論を言うと、繋がっている道義的責任はなく、しょうがなく繋がっていたとしたら、それは義務以上の親切な行為であるとした。(重要なことには、たとえ受胎の瞬間に「人」としての道徳状態が授与されたとしてもこの結論に至るという。)バイオリン弾きの例の場合、『音楽を愛する人たちの会』にさらわれてきたというのがミソだが、この不本意性を取り除くように多少例を変えても以前同様、義務は生じない。

先日、生徒とバイオリン弾きの話をしていたら、大半が管を抜かずに繋がっている義務は無いと言うので少し驚いた。驚いたというか、ホッとしたというのが本音。

去年、同じクラスを教えていたときは、生徒の半分くらいが繋がっている義務があると答えた。とても面白い有意義な議論になったのだが、教授の話によると、何故大学の授業で個人的な道徳観念や宗教に反する妊娠中絶の話をしなければならないのかという文句がその後殺到したらしい。これはたまげた。ざ・ふぁーむは名門大学であるし、何しろここはナンデモアリフォルニアだし、学部生もリベラルな生徒ばかりだと甘く考えていた。そうでもないらしい。

中絶の話になるとなおさらだが、ティーチングアシスタントは常時ある程度に中立的であらなければならないのが苦しいところ。「そうか、先生はこういう意見なんだ!じゃあ僕も先生が思っているとおりのことを言おう」ということを防ぐために、私は常に謎めいていなければいない。(このくそ暑い中、先生は何故セーターを着ているのだろう…とか全然関係ない面で謎めいている可能性大。答えは、天気予報をチェックするのを怠っていたから。暑苦しい格好をしててごめん。)

先週、死刑と拷問について議論をしたときは、授業のムードを明るくしようと思い、骸骨の柄の変なワイシャツを着ていった。生徒には大変受けたが、自分の学部に戻ったら後輩に苦笑された。

「それは…骸骨の柄?」

そう。いえ、私の中の中学生が暴れているわけではないんですよ。これも授業を盛り上げるための会心の作戦なんです。

今週も授業が無事終わり、夜は友人とイタリア料理を食べに行く。イタリア風の生地が薄いペパローニピザ、バターレタスのサラダ、ブランジーノ(スズキ科の魚で、ヨーロッピアンシーバスの北イタリア名)、フレグラ(もちもちしているサルデーニャのパスタ)を食べる。

ロシアンリバーバレーのピノ・ノワール(一杯)、キャンティ・クラシコ(一杯)、モンテプルチアーノ(一杯)、バローロ(一杯)とワインが続いて良い具合に酔う。


Or me.

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by majani | 2014-05-18 13:38 | 院生リンボー | Trackback | Comments(0)

好きなだけ太る自由

カントに続き、ニューヨーク市の「ソーダ・バン」について議論をした。ソーダブレッドじゃなくて、ソーダ規制ですよ。

肥満防止対策としてニューヨーク元市長ブルームバーグが推進した条例で、ニューヨーク市内のファーストフード店、レストラン、スポーツスタジアム等で16オンス以上(約470ミリリットル以上)の炭酸飲料の販売を禁止するものだ。去年3月に導入されるはずだったが、その前日にニューヨーク州の裁判所が「独断的で」「恒久的な」条例だとし、施行は中止となった。今年6月にアルバニーの控訴裁判所で再考される見通しだ。

パターナリズム(父権主義)とロバート・ノージックのリバタリアニズム(自由至上主義)について講義があったばかりなので、では「ソーダ規制」は父権主義的であるか?リバタリアンはどういう理由を述べて「ソーダ規制」に反対すると思う?という内容の議論だった。

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コカ・コーラの宣伝 (1953年)。どうでもいいけど、女の子が持っている食べ物が気になる。ポップコーン?おかゆ?カリフラワーにも見えなくない。Not pictured: obese children.

詳しい説明は省くが、ちょっと面白い発言があったので紹介する。

ソーダ規制は人の権利を侵すので父権主義的だと誰かが言ったので、「それはどんな権利だと思う?」と私が聞くと、一人の生徒がこう発言する。

「誰にだって好きなだけ太る権利がある」

クラスルームの全員が爆笑。

「これは面白い。では仮に〈好きなだけ太る権利〉というのがあるとしよう。導入されたとしたら、ソーダ規制条例はその〈好きなだけ太る権利〉の侵害に相当する?」と問う。

「16オンスのソーダを二つ買えばいいことだから、侵害にならない」と他の生徒が言う。

「ハンバーガーを沢山食べてもいいし」ともう一人が言って、また皆で笑う。

「そうだね。たとえ〈好きなだけ太る権利〉があったとしても、太るプロセスがちょっと面倒くさくなっただけでは侵害にならないよね。じゃあ、侵される権利は一体どんな権利?」

「う~ん、じゃあ〈32オンスの飲み物を買う権利〉」と誰かが言って、また爆笑。

「〈好きなだけ太る権利〉とか〈32オンスの飲み物を買う権利〉とかが仮にあったとしてもまだ問題点があるよね。例えば〈好きなだけ太る権利〉と〈フリースピーチの権利〉(言論の自由)を比べてみよう。どっちのほうが大事だと思う?」

元気な返事が返ってくる。「もちろん、フリースピーチ!」

「だよね。そう言ってくれて、ほっとしました。すると〈規制Aを選ぶと5つの権利が侵害されるが、規制Bを選べば6つの権利が侵害されるので、より侵害が少ない規制Aを選ぶべき〉というアーギュメントが使えなくなってしまうよね。」

「規制Aによって阻まれる5つの権利の中に、とても大事な権利が含まれているかもしれないから。」

「そのとおり。ではそうすると何等かの基準を使ってこの権利の方があの権利のほうより大事、と決めなければいけない。」

「でもその基準を決めるのに、権利の枠外の違う何かをまたレファレンスしなければなりません。」

「すると新たな問題ですね。」

という風にディスカッションが進む。

教授はもちろんそうだけれど、ティーチング・アシスタントも毎週毎週、新しいレッスンプランを作らないといけないのでけっこう大変だ。TAが盛り上がらないと生徒も盛り上がらないので、早朝でもなんでもこんなに面白いことはまずない!というくらいの元気とエネルギーをアピールするように心掛けている。普段の私は芋虫レベルのエネルギーなので、教え終わると毎回ぐったりである。

そのぐったり状態のまま、サファリさんに誘われて市内のカフェでしばらく一緒に仕事をし、腹ごしらえ。「サニー・プラター」とかいういかにも元気が出そうなものを頼んでみたら、普通のフレンチ・トーストが出てきた。

というわけで、昼ごはん。フレンチ・トースト(二枚)。スイカ。コーヒー(二杯)。

仕事がひと段落し、サファリさんが気分転換しに行こうというので、大した用もないのにIKEAに行く。黄色い斑点のついた葉がかわいらしい小さな植木と、グラス、ディナーパーティーをするとき用の(いつそんなカッコイイことするのか知らないけど)ペーパー・ナプキン等を買う。

ところで、IKEAに来ている人々は、何故か必ずぐったりしてアンハッピーな様子である。レジを通り抜けたところで、げっそりしたおじさんとおばさんが無言でシナボンを食べていたりする。哀愁漂う光景だ。シナボン自体が物悲しい。

夜はバーに行こうと友人に誘われていて、行く気満々だったのに、家に帰ってきてソファーにちょっと座った瞬間、気絶するように眠り込んでしまった。起きたら深夜0時になっていた。ざ・ふぁーむ辺りの終電は早いし、バーも朝の2時に閉まってしまうし、もうこれはベッドにもぐりこんで寝てしまおうと思ったのだが、ネットフリックスで『刑事コロンボ』を二本も観てしまう。

最初の頃のエピソードで、ピーター・フォークが実に若々しい。髪も真っ黒。これはこれで、とても楽しい金曜日の夜。



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by majani | 2014-04-28 18:57 | 院生リンボー | Trackback | Comments(0)

嘘をつく権利

殺人者があなたの家にやって来たとしよう。あなたが匿っている友達を殺しに来たのである。トントントン。

「はい。どなたですか。」

「お忙しいところすみません。あのですねえ、わたくし○○さんを殺しに来たのですが、ここにいませんか。」

○○さんは台所に隠れているが、「いますよ」と正直に答えたら殺人者がのしのし入ってきて殺してしまう。では「いません」という嘘をつくべきか。

あなたがカント主義者だったら、たとえ相手が殺人者でも「嘘をつくべきではない」と言わざるを得ないのだろうか?どんな場合でも、たとえ匿っている人を助けるためであっても、決して嘘をついてはいけないとイマヌエル・カントは考えた。何故かというと、帰結を考慮し始めると(匿っている友達が殺されてしまう帰結など)定言命法にいろいろな例外を設けなければならない(例えば、相手が殺人犯だったら嘘をついてもよい)。しかしそうすると帰結主義者(例として規則功利主義者)になってしまうし、道徳の問題の核心を回避することになってしまう。上記の殺人者の話はカントのエッセイ『人間愛から嘘をつくという誤って権利だと思われるものについて』(1797年)に出てくる例である。

しかしカントの答えに納得できない人が多い。ベンジャマン・コンスタンは、こんな極端なシナリオでも嘘をついてはいけないというのはどう考えてもおかしいと言った。嘘をつくことを完全に禁止することが正しいはずない、と。もっと丁寧にコンスタンの論文のことも書くべきだけれど、早い話がカントのリゴリズム(厳格主義)に不満を持つ人が多いということ。殺人者と嘘の問題は様々なカント学者が取り上げており、殊にクリスティーヌ・コルスガードの論文『嘘をつく権利~カントと悪の対処について』(1986年)が面白いと思う。カント主義をあきらめずに、問題を解決をしている。

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嘘をついたピノキオ。Carlo Chiostri (1902). From Le avventure di Pinocchio, storia di un burattino, Carlo Collodi, Bemporad & Figlio, Firenze 1883 [1902].


カントは偉大な哲学者だ。が、解釈しにくい。学部生に教えるのはもっと難しい。嘘と、「厳密に言えば嘘ではないけれど、真実を告げるわけでもない」言い逃れ、軽いごまかしとでも言おうか、その二つがどう違うのか生徒たちと議論したいと思い、学部生が「ああ、なるほどね!」という例がないか、考えてみた。

たどたどしい言い回しになってしまった。例えば、アレクサンドリアのアタナシオスの話。詳細はうろ覚えだが、何等かの理由があってアタナシオスは背教者ユリアヌスに追われており、逃走中にユリアヌスの手下に出くわす。幸い、手下はアタナシオスが認識できず、「ここいらでアタナシオスという者を見かけなかったか」と聞いてくる。そこでアタナシオスは、「この近くにいる」と答えるのである。答えたのはアタナシオス自身じゃなくてアタナシオスの仲間だったかもしれない。船に乗っていたかもしれない。そこらへんは怪しいが、重要なのは、「この近くにいる」は嘘ではないけれど、「私はアタナシオスではない」、「アタナシオスはここにいない」というふうにもとれる語義曖昧。カントの「決して嘘をつかない」というルールを守りつつ「この近くにいる」と言っても良いだろうか。「この近くにいる」は「アタナシオスを見かけていない」に比べて良いとされるだろうか。

朝ごはん。シリアル(懐かしのラッキー・チャーム、一ボウル)。コーヒーがぶ飲み。

昼ごはん。キャンパスのカフェでパニーニを食べる。コーヒー(一杯)。パニーニを食べながら、逃走中のアタナシオスもいいけど、もっと学部生が身近に感じられる例がないか、考えてみる。

よし、思いついた。例えばデート。私の周りにオーケー・キューピッド (OK Cupid)という出会い系サイトを使っている友人が多く、中にサイトで知り合った人と結婚した同僚もいる。そのオーケー・キューピッドで誰かと初めてのデートの約束をし、一緒に映画を観に行き、その後ディナーをしたとしよう。デートが終わり、ではおやすみなさいという別れの時に、「また電話するよ!」と言ってさよならをするパターンがアメリカで多い。(大概男の方が言うような気がするが、それは別にどうでもいい。"I’ll call you" の他に "Let’s do this again" というパターンもある。)

しかしそのデートの相手が大変つまらなくて、二回目のデートをするという気が一切無いあなたはこう考える。「電話をするよ」と言うのはエチケットでもあるから、言わないほうがむしろ失礼であり、相手を傷つけることになる。一方、「電話をするよ」と言うと偽りになってしまうかもしれない。理由は、相手が「電話をするよ」という言葉を「二回目のデートがある」というふうに受け止めてしまう可能性大であるということ。実際に電話をすることがあったとしても、二回目のデートの約束はしないわけだから、アタナシオスの答えと同様、曖昧である。果たして「電話をするよ」と言うのはいけないことだろうか。

しかしこれもよく考えてみれば、学部生の場合、オーケー・キューピッドなんか利用しなくたって、クラスルームとか寮のイベントとかで腐るほど新しい出会いがあるではないか。全然身近に感じられる例じゃない。オーケー・キューピッドの部分だけ除くことにするが、すると何だかレアリティに欠けているいる感じがする。(寮で出会った人をデートに誘うことは、既にある程度相手を気に入っているからで、よっぽどのことが無い限りこういうもどかしいシチュエーションがそもそも生じないと考えられる。学部生がいちいち「電話をするよ」と言うか言わないか迷うとも考えにくい。)

こんなことを悶々と考えているうちに遅くなってきた。なんとか、カントを教えきらなければ。

晩ごはん。白身魚、ワカメサラダ、炊き込みご飯。ビール(アンカー・スチーム、一ボトル)。

参考文献:Kant, Immanuel. 1797. On a supposed right to lie from altruistic motives. Trans. Lewis White Beck. In Immanuel Kant: Critique of Practical Reason and Other Writings in Moral Philosophy, Chicago: University of Chicago Press, 1949.

Korsgaard, Christine. 1986. The right to lie: Kant on dealing with evil. Philosophy and Public Affairs, 15(4): 325-349.



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by majani | 2014-04-25 15:56 | 院生リンボー | Trackback | Comments(0)


ナンデモアリフォルニアの某大学院で研究中。海外生活、旅、散歩で出会った生き物などの記録です。たまに哲学や語学に関するエッセイもどきも。


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