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トカゲと休憩

急にうぎゃ~となるほど忙しくなってしまい、更新が滞っています。

忙しい時期のちょっとしたジレンマ。家で仕事をしているとぐーたらしたい機能がすぐ作動してしまう一方、オフィスだと友人にちょくちょく話しかけられて、気が付くとお喋りで一日が終わっていたり、その日に限って(提出物を待たせている)教授にばったり会ってしまったり。

なので最近は大学の図書館の地下で借りている小さなオフィスに潜り、モグラのように細々と仕事をしている。ビタミンD不足が懸念。

仕事の合間を縫って、キャンパス内にあるラグニータ湖まで足を伸ばしました。

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学部生が大きなラジコンをいくつも持ち合い、湖の上を爽快に飛ばしている。夏休みの予感。

私はすでに6年以上、このキャンパスでのんびり卒論を書いているが、ラグニータ湖に水があるのを見るのは今年が初めて。雨が多い冬のおかげで、景色がガラリと変わっている。

ラグニータ周辺には絶滅のおそれがあるカリフォルニア・タイガー・サラマンダーというサンショウウオの種類が住んでいるらしい。湖が干上がってしまっていた間はどこで何をしていたんでしょうね。

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タイガーサラマンダーかな!と近づいてみたら、二匹のトカゲだった。一番日の当たりの良い休憩場所をめぐって言い争い(?)をしている。

頭では解かっていることですが、窓が無い部屋に一日こもっているのは良くないですね。私も、トカゲと少しだけ日向ぼっこをしていきましょう。



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by majani | 2017-05-03 06:48 | 院生リンボー | Trackback | Comments(2)

桜とヤシの木

春のキャンパスの、ちょっと変わった組み合わせ。

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桜とヤシの木が隣同士で、張り合うように花と枝葉を見せっこしている。大学の説明に寄れば、この「ヨシノチェリー」は岐阜県からの贈り物だそうです。

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こちらはカイドウズミ(Japanese flowering crabapple)。ピンクの蕾が頬紅のようなアクセントになっていて、可愛らしい。

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アメリカハナズオウ(Eastern redbud)。

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ふと見上げると、鳥の巣が花びらに隠れている。このオフィスの人が羨ましい。

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これは何でしょうね。花の名前を沢山知っていて、まだ小さな私と一緒に散歩をしながら「これはモクレン」「これは沈丁花」と丁寧に教えてくれた祖父を思い出す。

最近のキャンパスは毎日、何か新しい花に気が付く楽しみがある。毛虫もぽつりぽつりと出没し始めましたが。



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by majani | 2017-04-02 06:47 | 言葉と物 | Trackback | Comments(2)

富裕とワガママ

心地よい風が吹くある春の日、通勤中に驚く発見をする。毎朝通りすぎる池で、小さな子供が溺れかけているのだ。

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“Restoration of the Apparently Drowned. Howard’s Method” (detail), in The Household Physician (1874). Public domain.


池に飛び込めば、着ている500ドルのスーツとイタリア製の靴が台無しになってしまうが、子供を無事に引きずり出すことができる。すると大事な会議にも遅れてしまうが、いやいや、もちろん、子供の命を救うべきである。すぐさま池に飛び込むべきだ。

…びっくりさせて、スミマセン。久々に、授業で使った思考実験の紹介です。

枕が少し長くなりますが、ご興味あれば More をクリックしてください。



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by majani | 2017-03-23 12:46 | 院生リンボー | Trackback | Comments(0)

雨の日のロダン

降ったり止んだりの雨。天気のせいでブルーになりがちな日は、ロダンの考える人の顔をのぞきに行く。

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毎日、キャンパス内の美術館の前を通ってオフィスに向かう。雨の日の人影は、ロダンの彫刻だけ。

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ある夕方、寄ってみた。

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『地獄の門』。「考える人」が門の中心に座っている。よしよし、今日も考えているね。

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晴れていれば美術館のオープンエアカフェに座って、ビールを飲みながら生徒のペーパーの採点ができるのになあ。上は一年前にそうしていたとき。お気楽に過ごしていた時期だった。

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生徒たちが書いたエッセイの山を築き、今夜も作業に取り掛かる。大学院生には週末も平日もないんだなと、今さらだけれど、改めて思う。


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by majani | 2017-02-25 11:28 | 院生リンボー | Trackback | Comments(2)

肉食の貴方へ

私はバットの素振りをするのが大好きだ。家の中だと狭すぎるが、玄関のすぐ外ならのびのびとできる。しかし困ったことに、表に出ると、必ずそこに大きな牛が突っ立っているのである。

バットを振れば、牛の頭を叩き割ってしまうことが必至。でもそれは別に楽しくもなんともない。私が素振りが好きなのは、牛の頭に当てることではなく、バットを振る動作そのもの(筋肉の動き方とか、美しいフォームとか)から生じる快感のため。牛には不運だが、当たってしまうのは単に副次的な出来事である。もちろん、バットを振るのを諦めて、ストレッチなど違う運動をすることだってできる。しかし牛を傷つけなくて済む他の行為からは、同じ量の快感は決して得られないと私は考える。

牛は未だに玄関前で、ボーっとこちらの様子をうかがっているが、動く気配は全くない。私は滑らかな木製の野球バットを握りしめ、牛の目を覗きこみ、自分に問いかける。野球バットを振るのは、果たして許されることだろうか?
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久々に思考実験を紹介する。

上記の牛と野球バットの問題は、自由至上主義者のロバート・ノージックが考えたのを適応したもの。功利主義を批判する目的で紹介されたこの思考実験は、菜食主義(べジタリアニズム)に触れる倫理問題でもある。

ベジタリアンでない限り、私たちは日常的に肉を食べる。なにも肉を食べないと十分な栄養が取れない訳ではなく(極端な例だと、Soylent〈ソイレント〉を毎日飲めば何も食べずに健康維持できるらしい!)、肉料理が美味しく感じられるから食べるのである。しかしそれによって牛とか鶏とか食用の動物が毎日死んでいる。仮に肉を食べるのに倫理的な問題が無いとすると、牛の頭を叩き割ってまでバットを振る行為は許されないと感じる矛盾をどうやって解決すればよいのだろうか。肉を食べたいため牛を殺すのはOKだけど、バットを振りたいため牛を殺すのはNG…。そう教えてくれる一貫した倫理原則は存在するのだろうか?という思考実験。

私は七年のベジタリアン歴があったが、大学時代にチェコ共和国を旅していたとき、街頭で売っているぷりぷりっとしたホットドッグの誘惑に負けて、雑食動物に逆戻りした。それ以来、ずっとステーキを食べてきている。後ろめたい気持ちも、ずっと昔に消えた。

ところが最近、デフォルトでまたベジタリアンになりかけている。手術後の健康のため、また、食欲がなくて肉も魚も食べたくないという日があり、野菜だけの食事が多くなっている気がする。その昔ベジタリアンだった若い自分を思い出しながらアスパラをぽりぽり食べていたら、ノージックの思考実験を学生に与えたことも思い出した。
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去年の春、ティーチングアシスタントを務めていたクラスの教授の誘いを受けて、「動物倫理」というテーマで、人間が動物に対して持つ(または持たない)義務について講義をしたことがあった。

まずは牛と野球バットの思考実験。ここはナンデモアリフォルニア、生徒の中に何人かベジタリアンがいるだろうと思っていたら、一人もいなかった。哲学専攻の学部生は肉食が多いらしい。お肉が好きなだけあって、牛と野球バットの思考実験に当惑している様子の生徒たち。なんとしてでも、肉を食べることに倫理的な問題が無いという結果に結び付けたい。でも牛をバットで叩くのはあまりにも残酷だ。どうしよう。

「バットを振っても良いと考えた人は、誰かいますか?手をあげてみましょう」

ぽつぽつと弱気な手があがるが、それをすぐ引っ込める生徒もいる。

「うーん、まだ決まっていない人もいるようですね。誰か考えを聞かせてくれないかな」

「牛は死んじゃうんですか?」と一人の生徒が尋ねる。

「頭が木端微塵になってしまう設定ですから、必ず死にます」

「牛をどかしちゃったらいいんだ!」と誰かが言う。

「ダメダメ!それは思考実験のルール違反です。牛は動かせません。バットを振る場所も変えられません。バットが振れる唯一の場所に牛が必ずいるのです。」

「じゃあ、僕だったら振らないかなあ。とりあえず明日まで待ってみる。」

「ああ!それは賢い。やはり私にはできないと思い止まったとしましょう。しかし困りましたねえ。翌朝、また野球バットを持って外へ出ると、今度は違う動物がそこに立っているのです。とても悲しげな目をした馬です。」

生徒たちが笑う。

「私は都会育ちだから、牛とか馬とかにあまり思い入れがないです」と一人が冗談で言う。

「では、月曜日にはとっても可愛いウサギがいるとしましょう。火曜日は子犬、水曜日は子猫、木曜日はリス・・・。つまり、バットを振るのは今日だけの問題ではなくて、明日も翌日もそのまた翌日と続くのです。」

「確かに、子犬だったらバットは振れないと思います」

「では牛はあまり可愛くないから、バットを振ってもよいですね?」

「えっ、それは駄目です。可愛さで決めるのは理不尽。倫理的に関係ないです」と誰かが言う。

「ではどうやって決めたらいいのでしょう?」

生徒たちはまた少し考える。

「バットを振る快感というのも、なんとなく解らないです」と誰か言う。「私は野球をしないからこう感じてしまうのかもしれないですが、同じ快感が、他の運動からも得られるはずです。」

どうしても思考実験の設定にいちゃもんを付ける生徒が一人か二人いる。それは仕方がない。適応しながら会話を進める。

「そうですね、ではもっと身近なことにしてみましょう。週末とか、時間があるとき、何をするのが好きですか?」

「音楽を聴くのが好きです。リラックスできます。」

「音楽ね。私もリラックスするためによく音楽を流します。お風呂でもヨガでもいいんでしょうけど、音楽と同じレベルにリラックスできないんですね、これが。良いスピーカーを買うべきか迷っているんですよ。ところで、あなたはどうやって音楽を聴いていますか?」

「スマホです。パンドラ〈音楽が聴けるインターネットラジオのこと〉を使っています。」

「なるほど。ではこうしましょう。あなたがパンドラのアプリを開く度に、牛が一頭どこかで死にます。」

生徒たちが爆笑する。

「先生ー、どんどん変な方向に行ってます!」

「そんなことないですよ!むしろこっちの方が適格なアナロギーかもしれないですね。野球バットの設定だと、あなた自身が直接に牛を殺すことになってしまいますが、実際私たちが食べるお肉になる動物は、別の人間によって、どこか見えないところで殺されているわけですから。」

「別の人間が牛を殺すんだったら、パンドラのボタンをぽちっとしてもいいかも・・・」

「面白い見解です。どうして別の人間だったら許されると思いますか?」

「うーん、ちょとわからないけれど、残忍な殺し方じゃなかったら大丈夫な感じがします。」

何人か他の生徒が頷く。

「そうそう、バットを振る行為はなんとなく残酷な感じがします、先生」

「殺し方がいけないのですね。ではパンドラのボタンを押すと、牛はそのままパタッと倒れて死ぬことにしておきましょう。これだったら倫理的な問題はないでしょう!」と生徒を挑発してみる。

講義と言っても、このようなインターアクティブな要素を取り入れてみた。結果として、本当にベジタリアンになってしまった生徒が二人いた。そのうちの一人から、先生の講義のおかげでベジタリアンになりました!というお礼状がオフィスに届いた時はびっくりした。別にべジタリアニズムを肯定する講義ではなかったのに…。ちょっと的外れな生徒だったけれど、私の話が、思っていた以上に若い学生たちの脳ミソのニューロンを活性化し、レクチャーホールの外でも考えさせていたことをとても嬉しく思った。

倫理的に正しい行動と実際の行動、それはくっついたり離れたりする恋人のようにすれ違いが多い。ベジタリアンになった生徒が少しでも私のような人間であったとしたら、彼は何年か経ってから、異国の街で肉料理の香りにそそのかされ、またお肉を食べ始めることであろう。

参考文献:Nozick, Robert. 1974. Anarchy, State, and Utopia. New York: Basic Books, 35-42.
画像:Black and white diagram of cow parts for cuts of meat, Fig. 52 and Fig. 53. Public domain.


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by majani | 2015-03-26 11:09 | 院生リンボー | Trackback | Comments(0)

そしてバイオリン弾きは死ぬ

朝起きたら、隣に見知らぬ男が寝ていた。男はとても有名なバイオリン弾きだと後に知ることになる。しかし何故ここに横たわっているのだろう。問題だ。

しかもこの部屋に見覚えがない。とりあえず起き上がると、なんと自分の体から変な管が出ていて、バイオリン弾きの体に繋がれているではないか。驚きすぎて呆然としていると、『音楽を愛する人たちの会』の会員が部屋に入ってきて次のように状況を説明する。

「お目覚めですか!どうもどうも、すみませんねえ。」

「え、ちょっ…すみませんねじゃなくて、誰なんですか、この人。」

「この男性は無二の才能を持つバイオリニストなんですが、腎臓を悪くしてまして、あなたの体を9ヶ月間このように借りないと、治らないどころか死んでしまうのです。」

「それはお気の毒ですけど。こっちだって困ります。」

「あなたには大変申し訳ないんですが、世界中の人のカルテを確認したところ、バイオリニストの珍しい血液に適合するのがあなた一人しかいなかったので、昨夜あなたをさらってきて、バイオリニストに繋がせていただきました。」

「私、『音楽を愛する人たちの会』にアッサリさらわれたんですか。っていうか、9ヶ月間って長くないですか。管を今ここで引っこ抜いたら、どうなるんですか。」

「管を抜くと、バイオリニストは死にます。9ヶ月後、バイオリニストが回復したときに管を抜けば元通りになります。よろしくお願いしますよ。」

さて、あなただったら管を抜く?

バイオリニストと9ヶ月間繋がっている道徳上の義務はあるだろうか。9ヶ月ではなく、9年間だったら?あるいは、たったの一時間だったら、繋がっている義務はあるだろうか。

シュールな思考実験はジューディス・ジャーヴィス・トムソン(1971年)の『妊娠中絶の弁護』という論文に出てくるものである(注1)。胎児を著名なバイオリン弾きと置き換え、妊婦・母親を通性代名詞の you 、つまり「あなた」と置き換えた。中絶の是非をめぐる論争は哲学者の間でもあり、トムソンのバイオリン弾きの思考実験は今なおとても有名だ。

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注1:出典 Thomson, J. J. "A Defense of Abortion". Philosophy & Public Affairs 1:1 (Autumn 1971): 47–66. イラスト出典 Dubourg, G. 1852. The Violin.


トムソン自身は、管を抜いてもよいと考えた。理由を書くと長くなってしまうので省くことにするが、結論を言うと、繋がっている道義的責任はなく、しょうがなく繋がっていたとしたら、それは義務以上の親切な行為であるとした。(重要なことには、たとえ受胎の瞬間に「人」としての道徳状態が授与されたとしてもこの結論に至るという。)バイオリン弾きの例の場合、『音楽を愛する人たちの会』にさらわれてきたというのがミソだが、この不本意性を取り除くように多少例を変えても以前同様、義務は生じない。

先日、生徒とバイオリン弾きの話をしていたら、大半が管を抜かずに繋がっている義務は無いと言うので少し驚いた。驚いたというか、ホッとしたというのが本音。

去年、同じクラスを教えていたときは、生徒の半分くらいが繋がっている義務があると答えた。とても面白い有意義な議論になったのだが、教授の話によると、何故大学の授業で個人的な道徳観念や宗教に反する妊娠中絶の話をしなければならないのかという文句がその後殺到したらしい。これはたまげた。ざ・ふぁーむは名門大学であるし、何しろここはナンデモアリフォルニアだし、学部生もリベラルな生徒ばかりだと甘く考えていた。そうでもないらしい。

中絶の話になるとなおさらだが、ティーチングアシスタントは常時ある程度に中立的であらなければならないのが苦しいところ。「そうか、先生はこういう意見なんだ!じゃあ僕も先生が思っているとおりのことを言おう」ということを防ぐために、私は常に謎めいていなければいない。(このくそ暑い中、先生は何故セーターを着ているのだろう…とか全然関係ない面で謎めいている可能性大。答えは、天気予報をチェックするのを怠っていたから。暑苦しい格好をしててごめん。)

先週、死刑と拷問について議論をしたときは、授業のムードを明るくしようと思い、骸骨の柄の変なワイシャツを着ていった。生徒には大変受けたが、自分の学部に戻ったら後輩に苦笑された。

「それは…骸骨の柄?」

そう。いえ、私の中の中学生が暴れているわけではないんですよ。これも授業を盛り上げるための会心の作戦なんです。

今週も授業が無事終わり、夜は友人とイタリア料理を食べに行く。イタリア風の生地が薄いペパローニピザ、バターレタスのサラダ、ブランジーノ(スズキ科の魚で、ヨーロッピアンシーバスの北イタリア名)、フレグラ(もちもちしているサルデーニャのパスタ)を食べる。

ロシアンリバーバレーのピノ・ノワール(一杯)、キャンティ・クラシコ(一杯)、モンテプルチアーノ(一杯)、バローロ(一杯)とワインが続いて良い具合に酔う。


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by majani | 2014-05-18 13:38 | 院生リンボー | Trackback | Comments(0)

好きなだけ太る自由

カントに続き、ニューヨーク市の「ソーダ・バン」について議論をした。ソーダブレッドじゃなくて、ソーダ規制ですよ。

肥満防止対策としてニューヨーク元市長ブルームバーグが推進した条例で、ニューヨーク市内のファーストフード店、レストラン、スポーツスタジアム等で16オンス以上(約470ミリリットル以上)の炭酸飲料の販売を禁止するものだ。去年3月に導入されるはずだったが、その前日にニューヨーク州の裁判所が「独断的で」「恒久的な」条例だとし、施行は中止となった。今年6月にアルバニーの控訴裁判所で再考される見通しだ。

パターナリズム(父権主義)とロバート・ノージックのリバタリアニズム(自由至上主義)について講義があったばかりなので、では「ソーダ規制」は父権主義的であるか?リバタリアンはどういう理由を述べて「ソーダ規制」に反対すると思う?という内容の議論だった。

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コカ・コーラの宣伝 (1953年)。どうでもいいけど、女の子が持っている食べ物が気になる。ポップコーン?おかゆ?カリフラワーにも見えなくない。Not pictured: obese children.

詳しい説明は省くが、ちょっと面白い発言があったので紹介する。

ソーダ規制は人の権利を侵すので父権主義的だと誰かが言ったので、「それはどんな権利だと思う?」と私が聞くと、一人の生徒がこう発言する。

「誰にだって好きなだけ太る権利がある」

クラスルームの全員が爆笑。

「これは面白い。では仮に〈好きなだけ太る権利〉というのがあるとしよう。導入されたとしたら、ソーダ規制条例はその〈好きなだけ太る権利〉の侵害に相当する?」と問う。

「16オンスのソーダを二つ買えばいいことだから、侵害にならない」と他の生徒が言う。

「ハンバーガーを沢山食べてもいいし」ともう一人が言って、また皆で笑う。

「そうだね。たとえ〈好きなだけ太る権利〉があったとしても、太るプロセスがちょっと面倒くさくなっただけでは侵害にならないよね。じゃあ、侵される権利は一体どんな権利?」

「う~ん、じゃあ〈32オンスの飲み物を買う権利〉」と誰かが言って、また爆笑。

「〈好きなだけ太る権利〉とか〈32オンスの飲み物を買う権利〉とかが仮にあったとしてもまだ問題点があるよね。例えば〈好きなだけ太る権利〉と〈フリースピーチの権利〉(言論の自由)を比べてみよう。どっちのほうが大事だと思う?」

元気な返事が返ってくる。「もちろん、フリースピーチ!」

「だよね。そう言ってくれて、ほっとしました。すると〈規制Aを選ぶと5つの権利が侵害されるが、規制Bを選べば6つの権利が侵害されるので、より侵害が少ない規制Aを選ぶべき〉というアーギュメントが使えなくなってしまうよね。」

「規制Aによって阻まれる5つの権利の中に、とても大事な権利が含まれているかもしれないから。」

「そのとおり。ではそうすると何等かの基準を使ってこの権利の方があの権利のほうより大事、と決めなければいけない。」

「でもその基準を決めるのに、権利の枠外の違う何かをまたレファレンスしなければなりません。」

「すると新たな問題ですね。」

という風にディスカッションが進む。

教授はもちろんそうだけれど、ティーチング・アシスタントも毎週毎週、新しいレッスンプランを作らないといけないのでけっこう大変だ。TAが盛り上がらないと生徒も盛り上がらないので、早朝でもなんでもこんなに面白いことはまずない!というくらいの元気とエネルギーをアピールするように心掛けている。普段の私は芋虫レベルのエネルギーなので、教え終わると毎回ぐったりである。

そのぐったり状態のまま、サファリさんに誘われて市内のカフェでしばらく一緒に仕事をし、腹ごしらえ。「サニー・プラター」とかいういかにも元気が出そうなものを頼んでみたら、普通のフレンチ・トーストが出てきた。

というわけで、昼ごはん。フレンチ・トースト(二枚)。スイカ。コーヒー(二杯)。

仕事がひと段落し、サファリさんが気分転換しに行こうというので、大した用もないのにIKEAに行く。黄色い斑点のついた葉がかわいらしい小さな植木と、グラス、ディナーパーティーをするとき用の(いつそんなカッコイイことするのか知らないけど)ペーパー・ナプキン等を買う。

ところで、IKEAに来ている人々は、何故か必ずぐったりしてアンハッピーな様子である。レジを通り抜けたところで、げっそりしたおじさんとおばさんが無言でシナボンを食べていたりする。哀愁漂う光景だ。シナボン自体が物悲しい。

夜はバーに行こうと友人に誘われていて、行く気満々だったのに、家に帰ってきてソファーにちょっと座った瞬間、気絶するように眠り込んでしまった。起きたら深夜0時になっていた。ざ・ふぁーむ辺りの終電は早いし、バーも朝の2時に閉まってしまうし、もうこれはベッドにもぐりこんで寝てしまおうと思ったのだが、ネットフリックスで『刑事コロンボ』を二本も観てしまう。

最初の頃のエピソードで、ピーター・フォークが実に若々しい。髪も真っ黒。これはこれで、とても楽しい金曜日の夜。



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by majani | 2014-04-28 18:57 | 院生リンボー | Trackback | Comments(0)

嘘をつく権利

殺人者があなたの家にやって来たとしよう。あなたが匿っている友達を殺しに来たのである。トントントン。

「はい。どなたですか。」

「お忙しいところすみません。あのですねえ、わたくし○○さんを殺しに来たのですが、ここにいませんか。」

○○さんは台所に隠れているが、「いますよ」と正直に答えたら殺人者がのしのし入ってきて殺してしまう。では「いません」という嘘をつくべきか。

あなたがカント主義者だったら、たとえ相手が殺人者でも「嘘をつくべきではない」と言わざるを得ないのだろうか?どんな場合でも、たとえ匿っている人を助けるためであっても、決して嘘をついてはいけないとイマヌエル・カントは考えた。何故かというと、帰結を考慮し始めると(匿っている友達が殺されてしまう帰結など)定言命法にいろいろな例外を設けなければならない(例えば、相手が殺人犯だったら嘘をついてもよい)。しかしそうすると帰結主義者(例として規則功利主義者)になってしまうし、道徳の問題の核心を回避することになってしまう。上記の殺人者の話はカントのエッセイ『人間愛から嘘をつくという誤って権利だと思われるものについて』(1797年)に出てくる例である。

しかしカントの答えに納得できない人が多い。ベンジャマン・コンスタンは、こんな極端なシナリオでも嘘をついてはいけないというのはどう考えてもおかしいと言った。嘘をつくことを完全に禁止することが正しいはずない、と。もっと丁寧にコンスタンの論文のことも書くべきだけれど、早い話がカントのリゴリズム(厳格主義)に不満を持つ人が多いということ。殺人者と嘘の問題は様々なカント学者が取り上げており、殊にクリスティーヌ・コルスガードの論文『嘘をつく権利~カントと悪の対処について』(1986年)が面白いと思う。カント主義をあきらめずに、問題を解決をしている。

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嘘をついたピノキオ。Carlo Chiostri (1902). From Le avventure di Pinocchio, storia di un burattino, Carlo Collodi, Bemporad & Figlio, Firenze 1883 [1902].


カントは偉大な哲学者だ。が、解釈しにくい。学部生に教えるのはもっと難しい。嘘と、「厳密に言えば嘘ではないけれど、真実を告げるわけでもない」言い逃れ、軽いごまかしとでも言おうか、その二つがどう違うのか生徒たちと議論したいと思い、学部生が「ああ、なるほどね!」という例がないか、考えてみた。

たどたどしい言い回しになってしまった。例えば、アレクサンドリアのアタナシオスの話。詳細はうろ覚えだが、何等かの理由があってアタナシオスは背教者ユリアヌスに追われており、逃走中にユリアヌスの手下に出くわす。幸い、手下はアタナシオスが認識できず、「ここいらでアタナシオスという者を見かけなかったか」と聞いてくる。そこでアタナシオスは、「この近くにいる」と答えるのである。答えたのはアタナシオス自身じゃなくてアタナシオスの仲間だったかもしれない。船に乗っていたかもしれない。そこらへんは怪しいが、重要なのは、「この近くにいる」は嘘ではないけれど、「私はアタナシオスではない」、「アタナシオスはここにいない」というふうにもとれる語義曖昧。カントの「決して嘘をつかない」というルールを守りつつ「この近くにいる」と言っても良いだろうか。「この近くにいる」は「アタナシオスを見かけていない」に比べて良いとされるだろうか。

朝ごはん。シリアル(懐かしのラッキー・チャーム、一ボウル)。コーヒーがぶ飲み。

昼ごはん。キャンパスのカフェでパニーニを食べる。コーヒー(一杯)。パニーニを食べながら、逃走中のアタナシオスもいいけど、もっと学部生が身近に感じられる例がないか、考えてみる。

よし、思いついた。例えばデート。私の周りにオーケー・キューピッド (OK Cupid)という出会い系サイトを使っている友人が多く、中にサイトで知り合った人と結婚した同僚もいる。そのオーケー・キューピッドで誰かと初めてのデートの約束をし、一緒に映画を観に行き、その後ディナーをしたとしよう。デートが終わり、ではおやすみなさいという別れの時に、「また電話するよ!」と言ってさよならをするパターンがアメリカで多い。(大概男の方が言うような気がするが、それは別にどうでもいい。"I’ll call you" の他に "Let’s do this again" というパターンもある。)

しかしそのデートの相手が大変つまらなくて、二回目のデートをするという気が一切無いあなたはこう考える。「電話をするよ」と言うのはエチケットでもあるから、言わないほうがむしろ失礼であり、相手を傷つけることになる。一方、「電話をするよ」と言うと偽りになってしまうかもしれない。理由は、相手が「電話をするよ」という言葉を「二回目のデートがある」というふうに受け止めてしまう可能性大であるということ。実際に電話をすることがあったとしても、二回目のデートの約束はしないわけだから、アタナシオスの答えと同様、曖昧である。果たして「電話をするよ」と言うのはいけないことだろうか。

しかしこれもよく考えてみれば、学部生の場合、オーケー・キューピッドなんか利用しなくたって、クラスルームとか寮のイベントとかで腐るほど新しい出会いがあるではないか。全然身近に感じられる例じゃない。オーケー・キューピッドの部分だけ除くことにするが、すると何だかレアリティに欠けているいる感じがする。(寮で出会った人をデートに誘うことは、既にある程度相手を気に入っているからで、よっぽどのことが無い限りこういうもどかしいシチュエーションがそもそも生じないと考えられる。学部生がいちいち「電話をするよ」と言うか言わないか迷うとも考えにくい。)

こんなことを悶々と考えているうちに遅くなってきた。なんとか、カントを教えきらなければ。

晩ごはん。白身魚、ワカメサラダ、炊き込みご飯。ビール(アンカー・スチーム、一ボトル)。

参考文献:Kant, Immanuel. 1797. On a supposed right to lie from altruistic motives. Trans. Lewis White Beck. In Immanuel Kant: Critique of Practical Reason and Other Writings in Moral Philosophy, Chicago: University of Chicago Press, 1949.

Korsgaard, Christine. 1986. The right to lie: Kant on dealing with evil. Philosophy and Public Affairs, 15(4): 325-349.



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by majani | 2014-04-25 15:56 | 院生リンボー | Trackback | Comments(0)

従って、ガリレオは紅茶を飲む

金曜日は授業を教える日。早起きしてレッスンプランの手直しをし、プリントのコピーを作る。形式論理学の簡単な問題を出すことにする。問題は自分で適当なものを考えるのだが、これがまたとても楽しい。

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ガリレオの Dialogo sopra i due massimi sistemi del mondo, 1632, public domain.


たとえば、
  1. すべてのラマは紅茶を飲む。(前提)
  2. ガリレオはラマである。(前提)
  3. 従って、ガリレオは紅茶を飲む。(結論、1・2より)

とても馬鹿馬鹿しい例だが、くだらなければくだらないほど生徒たちの頭に残るようだ。ラマ問題は使わなかったけれど、似たようなくだらない例をいくつか作る。

上の形式は、「すべての A は B である」ことと「X は A である」ことから、「X は B である」と推論できる。形式的に表現することによって、原則を守りさえすれば固有名詞でも動詞でもなんでも置き換えられる利点がある。上の場合、Xは「ガリレオ」のことであって、B は「紅茶を飲む」動作を示す。言うまでもなく、ラマは紅茶を飲みやしないし、ガリレオはラマではないが、論理的に正しい。もう少し丁寧に言うと、この論証は妥当・・であるが、前提が偽なので健全・・ではない。

以下の例はどうだろう。
  1. すべてのラマは紅茶を飲む。(前提)
  2. ガリレオは紅茶を飲む。(前提)
  3. 従って、ガリレオはラマである。(結論、1・2より)

1の前提は最初の例と同じだが、この場合論証は妥当でない。何故かというと、ラマ以外に紅茶を飲む生き物がいるかもしれないからだ。ガリレオが紅茶を飲むという情報だけでは、ガリレオがラマだと言い切れない。なにしろ、ガリレオはコアラかもしれない。

ところで、たとえば「紅茶を飲むものはすべてラマである」、「ラマしか紅茶を飲まない」とかなんとか新しい前提を付け足したら、「ガリレオはラマである」という結論に至り、妥当な論証になる。が、最初の例と同様、前提自体が真でないので、健全ではない。

もう一つ、異なる形式のもの。
  1. アレハンドロがペンギンならば、アレハンドロは飛べない。(前提)
  2. アレハンドロは飛べる。(前提)
  3. 従って、アレハンドロはペンギンでない。(結論、1・2より)

「PがQならば、R」というのが1の条件文(Pがアレハンドロ、Qがペンギン、Rが「飛べない」)。それに「Rでない」という前提が加わり、従って「Pでない」という結論。この論証は妥当だ。

これに似た例を生徒にやらせたのだが、何故この論証が必然的に妥当なのかピンと来ない生徒が何人かいた。

仮にアレハンドロがペンギンだと想像してみよう。ペンギンであることは飛べない十分条件なので、アレハンドロがペンギンであることによって、絶対にアレハンドロは飛べないわけである。しかし2の前提で「アレハンドロは飛べる」という新しい情報が加わると、矛盾が生まれる。「アレハンドロはペンギン(つまり飛べない)」と仮定したのに、「アレハンドロは飛べる」という矛盾に至る。なので、最初に想像した「アレハンドロはペンギン」という仮定は明らかに間違っている。アレハンドロがペンギンであることはあり得ないため、「ペンギンでない」と結論付ける。

こうして、ある命題の否定を仮定とすると矛盾が生じることを論証し、従って元の命題(ペンギンでないこと)が正しい結論だと証明する方法は reductio ad absurdum と言う。日本語では背理法。つまり複雑な物事(「アレハンドロはペンギンである」はたいして複雑じゃないけれど)を不条理(absurd)な本質に還元してしまうんですね。

つまるところ、ペンギンじゃないんでしょ、と言われてしまうと、まあそのとおりなのだが、たとえば誰かと意見が異なったとき、具体的にどの部分が納得いかないのかピンポイントできるようにしていく訓練になるので、形式的論理の問題は哲学者の卵に大変役立つ。

この意見が異なる「誰か」は、哲学者や論文や本の著者などに限らず、テレビ演説する政治家、自分の親、何かについて議論している友達など、日常生活の人かもしれない。論証が妥当であっても前提のいずれかが怪しかったり、また結論だけ聞くと納得いくのに論証の過程が変だったり、こうやって少しずつ、直感だけに頼らず、論理的に考えることを教えていく。どんなに些細なことでも良いから、生徒が自分の人生の中で何か考え方が変わったとなれば、教える側としては万々歳である。

しかし、いつまでもペンギンとかラマとかの例じゃアレなので、ジョン・ロックの『寛容についての書簡』に基づいて書き出した論証を生徒に与える。前もって間違いをいくつか入れておいたので、どうしたら妥当な論証になるか考えてもらい、最後は論証の健全性についてディスカッションをする。

朝ごはん。ソイジョイを通勤中食べる(ブルーベリー味、一本)。ソイジョイは常時台所のスペシャル戸棚に備蓄。
昼ごはん。後輩と学校でランチ。タイ風チキンヌードルスープ(一杯)。

夕方までオフィスで仕事をするが、なんだか気分が優れないので早めに帰宅。『マッド・メン』のシーズン6がネットフリックスに出てることに気づき、小躍りを踊る。ソファでぬくぬくしながらテレビを見ていると、スナフキンも早めに帰宅。

晩ごはん。残っていた鮭をチャーハンにする。ルッコラのサラダ。最近ルッコラばかり食べている。少し飽きてきた。ビール(1ボトル)。

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by majani | 2014-04-04 23:12 | 院生リンボー | Trackback | Comments(0)

トロッコ問題!

隣の部屋のスナフキンの咳で起こされる。その後寝付けず、いやいや5時半起床。

朝ごはん。紅茶、トレーダー・ジョーズのイングリッシュブレックファスト(二杯)。いつだったかオフィス仲間がくれたのを鞄に入れたことをしばらく忘れ、ある日ぽろっとまた出てきたギラルデリのチョコレート(ひとかけら)。

早く起きれば起きるほど、朝の時間が短い。早起きしたのに、もう9時になっているとはどういったことか。10時くらいにキャンパスに着き、カフェで大きなラテを買う。雨が降っているので、仙人草が茂っている影のところにしゃがんで煙草を吸う。

ラテの最後を飲みながら、アマゾンで本を購入。ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』、マフムード・マムダニの Define and Rule : Native as Political Identity など。(そのまま訳すと、『定義統治~政治的独自性としての「ネイティブ」』。「分割統治 (divide and rule)」にかけているのでしょうね。まだ読んでいないけど、面白そう。)

午前中は、今学期 TA(teaching assistant の略で、授業助手)を務めているクラスの講義がある。現代の道徳問題、という崇高な名前のついたクラスだ。趣旨としては、現代社会における色々な問題を考察するのではなく、道徳哲学者が如何にして規範的議論を組み立てているか、その組み立て方は効果的であるかなど、要は哲学者の「道具」の使い方や見分け方、殊に道徳哲学者が用いる手法を学ぶクラスである。道徳問題の内容は、中絶だったり、菜食主義だったり、いろいろある。

なお、この哲学者ツールキット(売っているものなら、是非購入したい)の中に思考実験というのがある。今日は学期初めの講義だから、生徒にもっと興味を持ってもらおうということで、哲学者ってこんなに面白いこと考えてるんだよ、乞うご期待!というメッセージを込めて、面白い思考実験を生徒たちと実行する。もっとも、興味津々な生徒しか来ていないのだが、なかには哲学を「する」というのがどういうことなのかイマイチ分からない、もしくはあまり考えたことがなかった生徒や、哲学イコール「強い意見を持つ」と思い込んでいる生徒もいる。後でがっかりされるとこちらも困るので、こういう勘違いは今のうちに正しておく。

というわけで生徒に出題したのが、とても有名な「トローリー問題」。「トロッコ問題」とも言う。(日本語だと後者の方が語感が良い。トロッコ問題!という具合にびっくりマークを付け足したくなるような、なんだか景気良い感じがするので、「トロッコ問題」で統一することにする。)この思考実験は誰が最初に思いついただの、その後誰が適応しただの、細かい話は省くことにする。いろんなバリエーションがあるが、要は次のような設定だ。

線路の上に5人の人間が立っている。(線路の上で何をしているのか、何故そこにいるのか、詳細は別にどうでもいい。)そこに、なんらかの理由で制御不能になったトロッコが猛スピードで向かっていて、トロッコがそのまま走り続ければ、線路の5人は轢かれて確実に死んでしまう。ここまでが前提。

さて、あなたはちょうど線路の脇に立っていて、そこの分岐器のレバーをちょいと引けばトロッコの進路を切り替えることができる。ところが、その側線上にも誰か一人立っていて、進路を切り替えればこの人はトロッコに轢かれて確実に死んでしまう。

さあ、あなたはどうする?レバーを引くべきか?

これがトロッコ問題である。実際にどうするかという問題より、レバーを引くか引かないか、どちらが道徳的に正しい行動か考える。言うまでも無くこれは法律問題でない。あくまでも道徳に関する思考実験だ。

答えを心の中で決めたら、次の設定。

また5人、線路上にいるが、この設定では線路は一本。その上に橋が掛かっていて、あなたは橋の上から止まらなくなってしまったトロッコに気がつく。このままだと、線路上の5人は轢かれて確実に死んでしまう。さて、あなたの隣にはもう一人誰か立っていて、この人はとても太っている。(これはジューディス・ジャービス・トンプソンが提案したトロッコ問題の「太った男」バリエーション。太った男ではなくて背が高い女とかでもいいが、とにかく体が大きい赤の他人で、また、線路上の5人と同様、橋の上で何をしているのかはどうでもいいのだが、トロッコに気づいていない様子だ。線路の脇に落ちている100円を発見し、100円ならあれこれ買えるけど橋を降りるのは面倒くさい、せめて500円玉だったらなあ、なんて100円玉を拾いに行くべきか検討している、とでもしよう。)

そこであなたは考える。この太った人の背中をそっと、ほんの少しだけ押せば、彼はトロッコの前に落下し、その大きな図体でトロッコを止めることができる。少し先にいる5人は確実に助かるが、落下した太った人は確実に死ぬ。(因みにあなた自身は体が小さすぎるので、自分が橋から身を投げてもトロッコは止まらない。)

さあ、隣に立っている見知らぬ人をトロッコの前に突き落とすべき?

最初の設定では、より多くの人の命を救うためにレバーを引くべきだと回答する人が、一般的にけっこういる。ところが、橋のケースでは、5対1という計算は同じなのに、5人を救うためでも太った人を突き落とさないと答える人が断然に多い。(迷い無く突き落とす!と即答する人もいるが、それは少数派。橋の上でとどまって景色を眺めたりするのが好きな人にとってはグッドニュース。)とすると、最初のケースと橋のケースで何かが異なっていると直感的に感じているわけだ。

じゃあ、どこが異なるのか。教授が生徒たちに問いかけると、もしかしたら「背中をそっと押して突き落とす」というその接触自体が悪いのかもしれないと一人が言う。じゃあ、突き落とすのではなくて、橋の上にもレバーがあることにし、そのレバーを引くと、ちょうど太った人が立っているところの底がスポッと抜けて自動的に橋から落ちるという仕掛けになっている。そのように置き換えたら、橋のケースでもレバーを引くべき?発言した生徒は頭を傾げ、しばらく考えた末、いや、それでもなんとなく間違っている、と言う。ではこの「なんとなく」というのは何だろう。背中を押すという接触でないとしたら(もちろん、この接触を問題視する人もいるが)太った男を落とす行動のいったい何が非道徳的なのか?最初のケースと異なることを他に探してみよう。

こういう具合にディスカッションが進んでいく。最終的には、どう考えても太った男を突き落とすのは非道徳的だから、もしかしたら最初のケースでもレバーを引いちゃいけないのかも…と考え直す、すなわち自分の直感を疑い始める生徒も。

途中で、倫理的利己主義についてちょっと面白い余談があるんですよ、なんて教授が言っているあたりで、唐突な会話難易度アップに動揺する生徒たち。大丈夫、私のセクションはとても易しいよ。頑張れ、若き哲学者たち。

昼ごはん、ナシ。
晩ごはん。キノコとソーセージのピザ(2スライス)とトマトサラダ。先日友人が持ってきてくれた、ラベルにしまうまの絵が描いてある赤ワイン(3杯)。

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by majani | 2014-03-31 12:25 | 院生リンボー | Trackback | Comments(0)


カリフォルニアで博士号取得後、ニューヨークにやってきた学者のブログ。海外生活、旅行、お出かけの記録。たまに哲学や語学に関するエッセイもどきも。


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