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嘘をつく権利

殺人者があなたの家にやって来たとしよう。あなたが匿っている友達を殺しに来たのである。トントントン。

「はい。どなたですか。」

「お忙しいところすみません。あのですねえ、わたくし○○さんを殺しに来たのですが、ここにいませんか。」

○○さんは台所に隠れているが、「いますよ」と正直に答えたら殺人者がのしのし入ってきて殺してしまう。では「いません」という嘘をつくべきか。

あなたがカント主義者だったら、たとえ相手が殺人者でも「嘘をつくべきではない」と言わざるを得ないのだろうか?どんな場合でも、たとえ匿っている人を助けるためであっても、決して嘘をついてはいけないとイマヌエル・カントは考えた。何故かというと、帰結を考慮し始めると(匿っている友達が殺されてしまう帰結など)定言命法にいろいろな例外を設けなければならない(例えば、相手が殺人犯だったら嘘をついてもよい)。しかしそうすると帰結主義者(例として規則功利主義者)になってしまうし、道徳の問題の核心を回避することになってしまう。上記の殺人者の話はカントのエッセイ『人間愛から嘘をつくという誤って権利だと思われるものについて』(1797年)に出てくる例である。

しかしカントの答えに納得できない人が多い。ベンジャマン・コンスタンは、こんな極端なシナリオでも嘘をついてはいけないというのはどう考えてもおかしいと言った。嘘をつくことを完全に禁止することが正しいはずない、と。もっと丁寧にコンスタンの論文のことも書くべきだけれど、早い話がカントのリゴリズム(厳格主義)に不満を持つ人が多いということ。殺人者と嘘の問題は様々なカント学者が取り上げており、殊にクリスティーヌ・コルスガードの論文『嘘をつく権利~カントと悪の対処について』(1986年)が面白いと思う。カント主義をあきらめずに、問題を解決をしている。

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嘘をついたピノキオ。Carlo Chiostri (1902). From Le avventure di Pinocchio, storia di un burattino, Carlo Collodi, Bemporad & Figlio, Firenze 1883 [1902].


カントは偉大な哲学者だ。が、解釈しにくい。学部生に教えるのはもっと難しい。嘘と、「厳密に言えば嘘ではないけれど、真実を告げるわけでもない」言い逃れ、軽いごまかしとでも言おうか、その二つがどう違うのか生徒たちと議論したいと思い、学部生が「ああ、なるほどね!」という例がないか、考えてみた。

たどたどしい言い回しになってしまった。例えば、アレクサンドリアのアタナシオスの話。詳細はうろ覚えだが、何等かの理由があってアタナシオスは背教者ユリアヌスに追われており、逃走中にユリアヌスの手下に出くわす。幸い、手下はアタナシオスが認識できず、「ここいらでアタナシオスという者を見かけなかったか」と聞いてくる。そこでアタナシオスは、「この近くにいる」と答えるのである。答えたのはアタナシオス自身じゃなくてアタナシオスの仲間だったかもしれない。船に乗っていたかもしれない。そこらへんは怪しいが、重要なのは、「この近くにいる」は嘘ではないけれど、「私はアタナシオスではない」、「アタナシオスはここにいない」というふうにもとれる語義曖昧。カントの「決して嘘をつかない」というルールを守りつつ「この近くにいる」と言っても良いだろうか。「この近くにいる」は「アタナシオスを見かけていない」に比べて良いとされるだろうか。

朝ごはん。シリアル(懐かしのラッキー・チャーム、一ボウル)。コーヒーがぶ飲み。

昼ごはん。キャンパスのカフェでパニーニを食べる。コーヒー(一杯)。パニーニを食べながら、逃走中のアタナシオスもいいけど、もっと学部生が身近に感じられる例がないか、考えてみる。

よし、思いついた。例えばデート。私の周りにオーケー・キューピッド (OK Cupid)という出会い系サイトを使っている友人が多く、中にサイトで知り合った人と結婚した同僚もいる。そのオーケー・キューピッドで誰かと初めてのデートの約束をし、一緒に映画を観に行き、その後ディナーをしたとしよう。デートが終わり、ではおやすみなさいという別れの時に、「また電話するよ!」と言ってさよならをするパターンがアメリカで多い。(大概男の方が言うような気がするが、それは別にどうでもいい。"I’ll call you" の他に "Let’s do this again" というパターンもある。)

しかしそのデートの相手が大変つまらなくて、二回目のデートをするという気が一切無いあなたはこう考える。「電話をするよ」と言うのはエチケットでもあるから、言わないほうがむしろ失礼であり、相手を傷つけることになる。一方、「電話をするよ」と言うと偽りになってしまうかもしれない。理由は、相手が「電話をするよ」という言葉を「二回目のデートがある」というふうに受け止めてしまう可能性大であるということ。実際に電話をすることがあったとしても、二回目のデートの約束はしないわけだから、アタナシオスの答えと同様、曖昧である。果たして「電話をするよ」と言うのはいけないことだろうか。

しかしこれもよく考えてみれば、学部生の場合、オーケー・キューピッドなんか利用しなくたって、クラスルームとか寮のイベントとかで腐るほど新しい出会いがあるではないか。全然身近に感じられる例じゃない。オーケー・キューピッドの部分だけ除くことにするが、すると何だかレアリティに欠けているいる感じがする。(寮で出会った人をデートに誘うことは、既にある程度相手を気に入っているからで、よっぽどのことが無い限りこういうもどかしいシチュエーションがそもそも生じないと考えられる。学部生がいちいち「電話をするよ」と言うか言わないか迷うとも考えにくい。)

こんなことを悶々と考えているうちに遅くなってきた。なんとか、カントを教えきらなければ。

晩ごはん。白身魚、ワカメサラダ、炊き込みご飯。ビール(アンカー・スチーム、一ボトル)。

参考文献:Kant, Immanuel. 1797. On a supposed right to lie from altruistic motives. Trans. Lewis White Beck. In Immanuel Kant: Critique of Practical Reason and Other Writings in Moral Philosophy, Chicago: University of Chicago Press, 1949.

Korsgaard, Christine. 1986. The right to lie: Kant on dealing with evil. Philosophy and Public Affairs, 15(4): 325-349.



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by majani | 2014-04-25 15:56 | 院生リンボー

カリフォルニア、ニューヨークを経て、ボストンにやってきた学者のブログ。海外生活、旅行、日常の記録。たまに哲学や語学に関するエッセイもどきも。


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