2014年 05月 18日
そしてバイオリン弾きは死ぬ
トムソン自身は、管を抜いてもよいと考えた。理由を書くと長くなってしまうので省くことにするが、結論を言うと、繋がっている道義的責任はなく、しょうがなく繋がっていたとしたら、それは義務以上の親切な行為であるとした。(重要なことには、たとえ受胎の瞬間に「人」としての道徳状態が授与されたとしてもこの結論に至るという。)バイオリン弾きの例の場合、『音楽を愛する人たちの会』にさらわれてきたというのがミソだが、この不本意性を取り除くように多少例を変えても以前同様、義務は生じない。
先日、生徒とバイオリン弾きの話をしていたら、大半が管を抜かずに繋がっている義務は無いと言うので少し驚いた。驚いたというか、ホッとしたというのが本音。
去年、同じクラスを教えていたときは、生徒の半分くらいが繋がっている義務があると答えた。とても面白い有意義な議論になったのだが、教授の話によると、何故大学の授業で個人的な道徳観念や宗教に反する妊娠中絶の話をしなければならないのかという文句がその後殺到したらしい。これはたまげた。ざ・ふぁーむは名門大学であるし、何しろここはナンデモアリフォルニアだし、学部生もリベラルな生徒ばかりだと甘く考えていた。そうでもないらしい。
中絶の話になるとなおさらだが、ティーチングアシスタントは常時ある程度に中立的であらなければならないのが苦しいところ。「そうか、先生はこういう意見なんだ!じゃあ僕も先生が思っているとおりのことを言おう」ということを防ぐために、私は常に謎めいていなければいない。(このくそ暑い中、先生は何故セーターを着ているのだろう…とか全然関係ない面で謎めいている可能性大。答えは、天気予報をチェックするのを怠っていたから。暑苦しい格好をしててごめん。)
先週、死刑と拷問について議論をしたときは、授業のムードを明るくしようと思い、骸骨の柄の変なワイシャツを着ていった。生徒には大変受けたが、自分の学部に戻ったら後輩に苦笑された。
「それは…骸骨の柄?」
そう。いえ、私の中の中学生が暴れているわけではないんですよ。これも授業を盛り上げるための会心の作戦なんです。
今週も授業が無事終わり、夜は友人とイタリア料理を食べに行く。イタリア風の生地が薄いペパローニピザ、バターレタスのサラダ、ブランジーノ(スズキ科の魚で、ヨーロッピアンシーバスの北イタリア名)、フレグラ(もちもちしているサルデーニャのパスタ)を食べる。
ロシアンリバーバレーのピノ・ノワール(一杯)、キャンティ・クラシコ(一杯)、モンテプルチアーノ(一杯)、バローロ(一杯)とワインが続いて良い具合に酔う。