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国づくり

アルメニア教会や英国植民地時代からの古い建築物が残されている、シティセンターとは思えない静かな一角に迷い込んだ。コールマンストリートからアルメニアストリートへ歩いてゆくと、シンガポール切手博物館が見えてきた。

日本軍がシンガポールを占領していた1940年代初め、英国の植民地支配のイメージから距離を置くのを目的に、日本文化・伝統を示す切手が発行される。「マライ」というカタカナの文字が印象的だ。なるほど、文化を広める場合、切手は大変役立つ。誰もが使わなければいけない物で、しかし高圧的な感じがしない。切手のデザインに政治的な意図があったわけですね。

シンガポールは様々な文化、伝統、人種が入り混じる若い国。多様性をいかにマネージし、安定した国づくりをすればよいのか―こういった課題は独立当初から国の政治に深く根差している。ピカピカの高層ビルや建設工事現場などを見て、何となく感じたことだが、アジアの奇跡とも呼ばれる経済的成長の陰で、貧富の差が拡大していくことを考えると、「差」と「違い」の統治は、この国にとって、今なお重要な課題として在り続けるのでは。
何故急にこのような話をするかというと、シンガポールの「国づくり」が郵政に見受けられ、ちょっと面白いのです。
例えば、1969年に発行された「多様性を祝う」シリーズには、マレーの伝統的なダンスを披露する踊り子の絵や、中国のお面のデザインなどがある。濃いフューシャ、辛子色、ロビンズエッグブルーなど、綺麗な色彩だけれど、何故こんな切手をわざわざ作ったのか。切手は国全体で同じものが使われるわけだから、学校で教えられる教科書の内容や公用語と同様、国創りに関わっている。多様な人種と文化を、政治的紛争の元ではなく、ポジティブなものにしている。むしろ多様性こそが、この国のアイデンティティであるというメッセージを発信しているようにも感じられる。そんな若い国の様子が、こうしてちっぽけな一枚の切手に表現されているのだ。そう考えると、ね、感慨浅からぬものがあるでしょう。

もちろん、政治と全く関係ない切手も。野生動物の描写が多く見られるシンガポールの切手。1990年代には、ヤッコエイ(blue-spotted stingray)の切手が発行される。当時、私は家族でシンガポールに住んでいたわけだが、家にこのエイの切手が大量に買い置きしてあったのを、切手博物館を訪れて久しぶりに思い出した。しかしこれほど買い込んで、一体誰に手紙を出していたのだろう。エイの切手は一枚残らず使われてしまった。

切手をじっくり拝見した後、一人で大いに興奮して出てきて、エイの切手があったよと母に報告した。「シンガポールで切手博物館を見てきた人なんて聞いたことがない」と母は笑っていた。これはもっともで、一般受けしないのがよく解る。とにかく地味である。小さな博物館で、遠足で来ている小学生(幼稚園児?とても小さな子供たちだ)のグループを除き、誰もいない。一階のチケット売り場、兼ギフトショップでは、麻のシャツを着た博物館のおばちゃんが中国茶を淹れて和んでいる。
あとネーミングが悪いことね。Philatelic Museum なんて言われても、フィラなんですって?と聞き返してしまう。Phil(o)- は古ギリシャ語で「愛する」とか「好む」という意味で、現代英語でよく登場する。哲学(philosophy)は英知に対する愛、慈善活動(philanthropy)は人類への愛、愛書家は bibliophile、フランス好きの人は francophile など、日常的な会話にも出てくる言葉が色々ある。しかし philatelic は一度も耳にしたことがない。ギリシャ語の ateleia は免税されている、という意味がある。文字通り「免税されている物を好む」切手趣味、ということなんですね、
という面倒くさい説明をしなくて済む Museum of Stamps にしちゃったらいいのに。もう少しお客さんが来ると思うんだけどなあ。

私はシリコンバレーに住みながら、旅先から送る葉書にロマンを感じてしまう古い人間なので、中国茶を飲んでるおばちゃんの所で素敵な切手を買い、博物館の郵便ポストから絵葉書を投函…すればよかった!
良いアイディアは必ず、そんなに遠くないけど、戻るにはちょっと面倒くさい距離を行ってしまってから、ふと浮かぶ。





ゴーヤのせい
引き続き、一時帰国中の話。
いつからか、「趣味がない」というのが母の口癖になっていた。単に断言しているわけではなく、母の言い方からして、「私には趣味がないから、まったく困ったもんだ」という意味合いだと推測される。
趣味がないと如何して困るのかはさておき、この発言は世紀の大嘘、じゃなくてとんだ勘違いである。母は仕事を続けているにも拘らずむしろ多趣味だ。語学の習い事の他、読書好きで、家ではレコードをかけて父と楽しそうに踊っているし(私は空しく単独で)、的確でスピーディーな編み物を得意とする。母からアメリカ宛に送られてくる郵便物には、「先週、Law & Order を観ながら編みました」という葉書と一緒に手編みのカーディガンが丁寧に詰めてあったりする。母がエグイ発砲沙汰シーンなどを観ながら編んだと思うと、殊更カーディガンに愛着が沸く。
熱中していたかと思えばある日パタッと辞めてしまった「趣味」もある。母は一時期キルティングにはまっていた。「キルティング仲間」と一緒にそれは狂ったように針を動かし、当時住んでいた家には、ここはアメリカ中西部のカントリーハウス?と間違えられてもおかしくない量のベッドスプレッドがあった。全部が手縫いだったので私も小学校のときに手伝わされた覚えがある。様々な大作を築いたら飽きてしまったのだろうか、母の短くも激しいキルティング時代はアッサリと幕を閉じることになるが、今でも家の変な場所からキルティングの切れ端(未完成の作品があったらしい)がぽろっと出てきたりする。何故あれほど夢中になっていたか、母自身にも理解不能だ。
キルティングやらには流行り廃りがあるが、母は長年ガーデニングを愛してきた。この趣味だけは、変わらぬまま。ガーデニングと言ってもマンションなので、大半が室内もしくはベランダで育つ植物である。ココヤシ(愛称はそのままココヤシちゃん)や、パキラ(パキラちゃん)、まん丸の大きな種から育て上げたアボガド(やっぱりアボガドちゃん)、オリヅルラン(少し難しい名前になると、あだ名が付かないらしい)などは昔から我が家に住んでいる。季節によってシクラメン、ポインセティア、オクラ、プチトマト、ハーブ各種が登場する。

今回、私が実家に帰ると、ベランダでゴーヤが元気に育っていた。それはベランダの一角に覆いかぶさるように蔓が伸びており、所々に薄い黄色の花が咲いている。葉は顎のラインが尖ったコアラの顔のような形だ(分かりにくい説明)。そして一番下の方に、一つだけ小さな萎んでしまった緑の風船のような物体がある。葉が生えてもいないようなところにゴーヤの実が生っているではないか。長年大切に育ててきたのに一度も実ができなかったアボガドに対し少し冷たく接する母のその愛情は今、この一つのゴーヤの実に全力で注がれている。もっと蔓が渦巻いているようなところに生るものだと思っていたが、とりあえず頑張れ、ゴーヤちゃん!思わせぶりで気まぐれなアボガドに代わって、母の愛に応えてくれるだろうか。
みるみる大きくなる、丸みを帯びたゴーヤ。それを煙草を吸いにベランダに出た父が真剣な表情で観察し、水をやったりしている。
このゴーヤのせいで、私はとうとうワゴンから落ちてしまった。何回目になるだろうか。「ワゴンから落ちる」(fall off the wagon)は元々「禁酒に失敗する」という意味があるが、ダイエットなどに失敗したときにも用いられる。私の場合は喫煙に失敗したのだ。それも潔く落下したというよりも、鯨を見にいった7月からずるずると引きずり下ろされ、とうとうワゴンに逃げられたという感じである。

それにしても日本は煙草が吸いやすい。北ナンデモアリフォルニアに比べれば喫煙者が断然に多いし、お酒がある所では必ず煙草が吸える。
いえ、環境のせいにしているわけではないですよ。ゴーヤのせいなのです。
ベランダに出るとゴーヤがまずそこにあり、その手前に父が灰皿代わりにしている大きな皿と低い椅子が置いてある。椅子に座るとちょうど目線がゴーヤちゃんのところに来る。ゴーヤの様子を見に外に出ると椅子に座るのが自然で、座るとちょうどそこに灰皿があるのだから、では一本吸いながらゴーヤを眺めようではないか、となってしまう。東京には私の喫煙の友、ウッドバート・ドミンゴがいないかわりに、ゴーヤちゃんが煙草の友になってしまった。
しかしそのゴーヤちゃんも先日収穫されてしまった。「もうそろそろ収穫の時期じゃない?」「まだ大きくなるんじゃない」「そろそろ収穫していいかなあ」「いいや、まだまだ」「今日くらい収穫?」という他愛ない家族会議が何日か続いた末、我慢できなくなってしまった母が、「私、収穫しちゃう!」とベランダに飛び出て、勢いで切り取ってしまった。
立派なゴーヤチャンプルに変身したゴーヤちゃんは、あんなに可愛がられていたのに実際に食べてみると「なんか、けっこう苦いね」と不評だった。そりゃあ苦いよ、ゴーヤなんだから。
再び煙草の友がいなくなり、少し寂しいベランダ。今朝、何も生っていないゴーヤの蔓をぼーっと見ていたら、なんと、奥の方にもう一つゴーヤの実ができている。食べてしまったゴーヤより何倍も大きく見える。受粉もせずに放ったらかしにしてあったのに、こいつはひっそりとすくすく成長していたのだ。
新しい煙草の友(ゴーヤちゃん二号)ができてベランダに出る楽しみがまた一つ増えてしまい、当分ワゴンに乗れないのではないかと心配になる。自分が強い意志を持てばできるはずなのに、やはりゴーヤのせいにしてしまう今日この頃。
その一方で母はそろそろゴーヤに飽きてきたようで、新しい「趣味」を開拓しようとしている。





本屋で憂鬱症のペンギンと知り合う
この間、サンフランシスコのシティーライツ本屋(City Lights Books)のウィンドウ前でコーヒーを飲んでいたら、「良い本屋とはどんな本屋だと思う」と友人に聞かれた。
「それは人によるんじゃない」
「じゃあ、君の場合は」
「具体的な本を探しているとき、それが見つかると嬉しい」
「人によるというか、それは誰でもそうだと思うけど…」
まったくそのとおりである。そこで「良い本屋」について少し考えてみた。
もっとも、最近は近所の古本屋に入り浸っている。いつも「旅に待ったなし」をモットーに生きている私は、本屋に入ったときも「本に待ったなし」と思ってしまう。たまたま見つけた面白そうな本をその場で買っておかないと、次に本屋に入ったときに見つからなくなってしまうからだ。表紙の色やデザインはぼんやりと記憶に残っていても、タイトル、ましてや著者を覚えていることは極めて稀。つまり忘れっぽいのだ。

この「たまたま見つけた」というのが重要で、別のものを探している途中に何気なく手にとった本のページをぱらぱら捲っていたら、じわじわと興奮してくるのが良い。家に持ち帰って一気に読みたくなるような本、それも書評など見つからないような無名の作家が書いた小説や、表紙が大人しいわりには一ページ目からにして不条理な展開が待ち受けている短編集など、そんな本に偶然に巡り合うと実にワクワクするではないか。
こういった「偶然」を確実に生み出す本屋、それが私にとって良い本屋である。もちろん、まったく無茶な要望で、「偶然」を「確実に生む」ことは矛盾しているように思える。しかし本の配置やテーマ別のディスプレイなど、工夫の余地が色々あるわけで、この点で本屋側は美術展のキュレーターに似ている。「たまたま見つけた感」が如何に感激的で、またどのような頻度で生まれるかは、ある程度、本屋側のセンシビリティによって決まる。

こんな会話を友人としていた City Lights Books はサンフランシスコの中華街とノースビーチの境目にある有名なインディペンデントブックストアだ。
昔はビート詩人や小説家が集まった、映画に喩えるとミニシアター系、音楽に喩えるとインディー系とでも言おうか、とにかくお洒落でヒップな本屋である。地下のノンフィクションの在庫は乏しく思えるが、フィクションに関しては充実しており、入り口近くの最新ペーパーバックを始め、ウィンドウに飾った風変わりな本や世界文学の本など実に楽しい品揃えで、面白い本が「たまたま見つかる」ことに期待できる本屋である。また、二階の詩の部屋や本棚の間などに椅子が置いてあるので、立ち読みどころかしっかり座って本を吟味することができる。
サンフランシスコの街に出ることはあまりないが、近所のインディペンデントブックストアや古本屋によく立ち寄る。古本屋の場合、一見キュレーター並みの工夫は何も無いが、やはりどんな古本を買い取るかによってその本屋の独自性が現れる。近所の古本屋は、クラシックな本の早版や少し変わった限定版、また詩集もかなりの数が置いてあり、うかうかしていると二時間ほど長居してしまう危険がある。
先日訪れたときは、狭い通路に山積みにされていた本の中から「ジョン・ミューアの歌」という薄いノートみたいな本が出てきた。ミューアウッズのことは以前少しだけ書いた。投げやりな感じに通路に置いてあったのを手にとって始めて知ったが、ミューアは作曲もしたらしい。たまたま見つけた本は、挿絵付きのミューアの曲集だった。

今まで「たまたま見つけた」本の中で気に入っている例として、ウクライナ人作家アンドレイ・クルコフの『ペンギンの憂鬱』(1996年)。
憂鬱症のペンギン、ミーシャと共に暮らしている貧乏作家の話で、不思議に満ちた悲喜劇だ。ハードボイルドな要素があるにも関わらず、不眠に悩むミーシャが人間っぽくアパートを歩き回ったりため息をついたりするシーンなど、日常生活の哀愁と孤独の描写が面白く感じられる。

因みにロシア語の原題は『氷上のピクニック』、私が読んだ英訳は Death and the Penguin 『死とペンギン』である。海外文学のタイトルがどうやって訳されるか、その翻訳政治について私は何も知らないが、実に興味深い。例えば、続編に Penguin Lost (ざっと訳してみると『喪失したペンギン』、『ペンギン喪失』)があるが、原題は『カタツムリの法則』で、また仏題は Les pingouins n’ont jamais froid (『ペンギンは寒がらない』)。この『カタツムリの法則』というタイトルがとても気になる。
もう一つ例として、60年代におけるラテンアメリカ文学ブームの代表的な作家であるマリオ・バルガス・リョサ。よくガブリエル・ガルシア・マルケズなどとひっくるめて「ラテンアメリカ文学作家」とされてしまっている(私もたった今そうした)。最近、彼の作品の中であまりよく知られていない非政治的な本が気に入っている。ユーモアたっぷりの『継母礼賛』(1988年、Elogio de la madrastra )も、やはり、たまたま見つけた本だ。
友人との会話に戻ると、私たちの場合、基本的に毎日読んでいる本はウツっぽいペンギンとかセクシーな継母とかの話でないことは言うまでもない。研究の関係で本を探しているときは普通の書店で見つからないケースが多いため、インターネットで購入するか図書館で借り出すことになる。偶然に頼ることも、もちろんない。
「じゃあ、けっきょく良い本屋に求めるものは何だろう」と友人。
「小さい本屋ってけっこう好き。まあ、小さいから良いということはないけれど。一番嬉しいのは、まさにこの本屋に入らなかったら絶対に知ることのなかった本が見つかることじゃないかな。」
「ふーん、なるほど。僕は大きな書店も好きだけどね。平積みになっている本を見るのって楽しいと思わない。なんとなくトレンドも分かるし。」
「そうそう。あと、心地良いアームチェアが所々に置いてあるとさらに良いね。」
「けっきょく本屋でもくつろいじゃうんですね!」と明るくコメントする友人。
本屋でも、が余計だが、それはさておき…。
ある意味、大学院生は憂鬱症のペンギンのようだ。同僚や教授と共同研究をする時期もあれば、孤独な時間もあり、夜遅くオフィスを歩き回ってため息をつくこともしばしば。くつろぐ時間は大学院生にとって、とても大切な時間だと思う。インターネットで本を買うのが主流になっている時代だからこそ、昔ながらの本屋に足を運んで、偶然と憩いを求めてしまうのかもしれない。
あと、冷房。ざ・ふぁーむは最近、とても暑い。





カリフォルニアで博士号取得後、ニューヨークにやってきた学者のブログ。海外生活、旅行、お出かけの記録。たまに哲学や語学に関するエッセイもどきも。
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